占いという仕事
昔、「馬を水場に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」というようなたとえ話を、友だちが持ち出して批判していた。
昔のわたしを例えるなら、「水の味を比べるために、次々、水場を求めて移動する」みたいな感じだった。
だから、「水を飲もうとしない」という意味が分からない。
自分は、どんな味がするのが、すべてを味わってみたくて仕方がないから。
でも、本題は、「水を飲んだ後、どう生きるか」にあるのであって、「どの水を飲むか」ではない。
要するに、水があればいい。味は問題ではない。
だから、次々移動を繰り返すだけで、何かを続けてこなかったことを後悔していた。
「味わい続けることをすればよかった」と心から思った。
なぜなら、外側から見た、概要的な知識を得ても、ぼんやりした印象が残るだけで、すぐに忘れてしまう。
いつまでたっても外側にいる愚者で、中心に立つ魔術師になれない。
考えなくてもスッと出てくる、無意識に判断できるようになるためには、地味な繰り返しが求められる。
暗記の要素が欠かせない。
ただ繰り返している間は、とても不安だ。
身についているのか、続けていて意味があるのか、分からなくなる。
そんな時は、同じように勉強している仲間だったり、お客さんの反応だったりが、光になる。
挑戦するのはいいことだ。
でも、「続ける」と決めたことの範囲で行うべきで、無限の可能性は必要ないと思う。
そこが分からないと、何もかも必要に思えたり、逆に、何にも意味がなく思えたりするのではないか。
たしかに、二つ、三つと知っていることが増えれば、判断力もあがるかもしれない。
しかし、二倍、三倍の努力が求められるわけで、体力や気力が人の二倍、三倍なければ難しい。
まして虚弱体質で弱いなら、できるだけ絞った方がいい。
わたしは、出産後体調がすぐれなくて、「このまま死ぬかもしれない」となった時、それまで遊ぶのを我慢していろいろ知ろうとしてきた反動で、すべて放棄してあちこち遊びにいくようになった。
でも、お客さんは虚しい。
やっぱり、お店の人になりたい。
お客さんにも瞬間的な楽しさはあるけど、もっとと望むと、体力や資金や時間などの壁に阻まれてしまう。
自分に何かあって、気分転換にお客さんになって楽しむならいいけど、お客さんしかないと虚しい。
しかし、お客さんとお店の人の間には、巨大な壁がある。
「身につけるためにかかる時間」という先の見えない問題だ。
一を聞いて十を知るような人には、その壁はないも同然だろう。
一度聞けば忘れない人には、暗記の苦労はないだろう。
センスがあれば、独学で学んで、すぐに商売ができてしまうかもしれない。
でも、多くの人はそうじゃない。
単純なことを何度も間違えて、時間をかけて身につけていく。
だから子どもに対して、どんなことが向いているか分からないから、文字や計算や歴史などの共通する知識を教えて、いろいろな概要を体験させて、心から望むことを選ぶように仕向けている。
好奇心いっぱいなら、なんでも意欲的に取り組むだろう。
しかし、好奇心を満たすためだけに生きていると、最後は虚しくなる。
どこかで選んで、続けて行かなければならない。
普通は、仕事を選ぶときに、専門を決めることになる。
しかし、専門と言えるほどの知識を必要としない仕事を選んだなら?
あるいは、ある程度分かると飽きて、次々仕事を変えてしまったら?
それでも結局、繰り返したことが、手元に残るのだと思う。
わたしの手に残されたのは、趣味の小説と、タロットと占星術という占いの仕事だった。
残されてたことがあるのだから、それを続けて行こう。
そう思ったら、「やってみなければ分からないのだから、いろいろなことに手を出した過去もまたよし」と受け入れることができた。
そしてスッキリした。
好奇心旺盛なことはよいこととして語られて、あまり悪い側面については語られないけど、愚者的な要素が強すぎても、困ったことになる。
与えられた寿命は、好奇心を満たすためには長いが、得たものを役立たせていくには短い。
本当に心から「家族の笑顔が見たい」と望んでいるなら、金銭という価値の目安がなくても、家事労働に喜びを感じられると思う。
サザエさんに出てくる、フネさんみたいに。
でも、「何をするかより、誰といるか」と言い切れる人も、また少数派なんだろうと思う。
選べないなら、選ぶことを。
続けられないなら、続けることを。
その二つを手伝うのが、占いという仕事なのかもしれない、と最近思う。
昔のわたしを例えるなら、「水の味を比べるために、次々、水場を求めて移動する」みたいな感じだった。
だから、「水を飲もうとしない」という意味が分からない。
自分は、どんな味がするのが、すべてを味わってみたくて仕方がないから。
でも、本題は、「水を飲んだ後、どう生きるか」にあるのであって、「どの水を飲むか」ではない。
要するに、水があればいい。味は問題ではない。
だから、次々移動を繰り返すだけで、何かを続けてこなかったことを後悔していた。
「味わい続けることをすればよかった」と心から思った。
なぜなら、外側から見た、概要的な知識を得ても、ぼんやりした印象が残るだけで、すぐに忘れてしまう。
いつまでたっても外側にいる愚者で、中心に立つ魔術師になれない。
考えなくてもスッと出てくる、無意識に判断できるようになるためには、地味な繰り返しが求められる。
暗記の要素が欠かせない。
ただ繰り返している間は、とても不安だ。
身についているのか、続けていて意味があるのか、分からなくなる。
そんな時は、同じように勉強している仲間だったり、お客さんの反応だったりが、光になる。
挑戦するのはいいことだ。
でも、「続ける」と決めたことの範囲で行うべきで、無限の可能性は必要ないと思う。
そこが分からないと、何もかも必要に思えたり、逆に、何にも意味がなく思えたりするのではないか。
たしかに、二つ、三つと知っていることが増えれば、判断力もあがるかもしれない。
しかし、二倍、三倍の努力が求められるわけで、体力や気力が人の二倍、三倍なければ難しい。
まして虚弱体質で弱いなら、できるだけ絞った方がいい。
わたしは、出産後体調がすぐれなくて、「このまま死ぬかもしれない」となった時、それまで遊ぶのを我慢していろいろ知ろうとしてきた反動で、すべて放棄してあちこち遊びにいくようになった。
でも、お客さんは虚しい。
やっぱり、お店の人になりたい。
お客さんにも瞬間的な楽しさはあるけど、もっとと望むと、体力や資金や時間などの壁に阻まれてしまう。
自分に何かあって、気分転換にお客さんになって楽しむならいいけど、お客さんしかないと虚しい。
しかし、お客さんとお店の人の間には、巨大な壁がある。
「身につけるためにかかる時間」という先の見えない問題だ。
一を聞いて十を知るような人には、その壁はないも同然だろう。
一度聞けば忘れない人には、暗記の苦労はないだろう。
センスがあれば、独学で学んで、すぐに商売ができてしまうかもしれない。
でも、多くの人はそうじゃない。
単純なことを何度も間違えて、時間をかけて身につけていく。
だから子どもに対して、どんなことが向いているか分からないから、文字や計算や歴史などの共通する知識を教えて、いろいろな概要を体験させて、心から望むことを選ぶように仕向けている。
好奇心いっぱいなら、なんでも意欲的に取り組むだろう。
しかし、好奇心を満たすためだけに生きていると、最後は虚しくなる。
どこかで選んで、続けて行かなければならない。
普通は、仕事を選ぶときに、専門を決めることになる。
しかし、専門と言えるほどの知識を必要としない仕事を選んだなら?
あるいは、ある程度分かると飽きて、次々仕事を変えてしまったら?
それでも結局、繰り返したことが、手元に残るのだと思う。
わたしの手に残されたのは、趣味の小説と、タロットと占星術という占いの仕事だった。
残されてたことがあるのだから、それを続けて行こう。
そう思ったら、「やってみなければ分からないのだから、いろいろなことに手を出した過去もまたよし」と受け入れることができた。
そしてスッキリした。
好奇心旺盛なことはよいこととして語られて、あまり悪い側面については語られないけど、愚者的な要素が強すぎても、困ったことになる。
与えられた寿命は、好奇心を満たすためには長いが、得たものを役立たせていくには短い。
本当に心から「家族の笑顔が見たい」と望んでいるなら、金銭という価値の目安がなくても、家事労働に喜びを感じられると思う。
サザエさんに出てくる、フネさんみたいに。
でも、「何をするかより、誰といるか」と言い切れる人も、また少数派なんだろうと思う。
選べないなら、選ぶことを。
続けられないなら、続けることを。
その二つを手伝うのが、占いという仕事なのかもしれない、と最近思う。
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