わたしの夢

 タロットの話でも、楽園を求める話でもある。

 必要なものを用意する物理的な強制力=皇帝
 よいことを選ばせる精神的な強制力=法王
 と考えた場合、好きなことが、必要で、よいことなら、何の問題もない。
 しかし、嫌いだったり、不要だったり、わるいことなら、問題がある。

 わたしが皇帝なら、「必要」を優先するために、優遇措置をとって人々を動かそうと操作するだろう。
 必要だが、人の集まりにくいところには、飴を与える。
 反対に、不要だが、人の集まることには、重荷を背負わせる。

 具体的には、国土を保護し、子どもを育てる、保護区を優遇する。
 そこでは、人々が集団で必要なことを役割分担して暮らしている。
 常に「自然にとってもっともよい選択」を考えなければならない。
 心のままにふるまう自由はない。

 もちろん、どちらでもいい場合は、保護区ごとに自由裁量を与えられる。
 しかし、自然に負担がかかることは、選べない。
 継続できないやり方も、選べない。
 そうして、森林を育てながら、自給自足の暮らしを営んでいく。

 森に精通した高位の指導者も、
 誰でもできる簡単な作業を手伝う多くの労働者も、
 同じ服を着て、同じ食べ物を食べて、同じ設備の家に住み、同じだけの報酬を得る。
 「必要をみんなで満たす」という目的が果たされればよいから。

 実行は専門家が担当するとしても、
 どうするのかはみんなで話し合って決めるので、
 まとめやくはいるが、命令する人間はいない。
 みんなで「国土保護」という原則に従って判断して、村を運営していく。

 そういうのが、2173年シリーズで、エリーが想像していた保護区。

 では、自由区は?
 そこが曖昧だった。
 無法地帯は、特にあやふや。
 なぜ、悪なのか?
 そこも曖昧だった。

 もし、あなたが皇帝だったら、どこに誰を配置するだろう?
 優秀な人材は、国の運営の要に据えたいと思わないだろうか?
 たとえば、「東大を出て芸人になる」という選択をどう思うのか?
 確かに、職業選択の自由があるから、芸人になって悪いことはない。
 文化や芸術が、国を栄えさせることも事実だ。
 しかし、やりたがる人間はたくさんいるのだから、飴を与える対象にはならない。
 むしろ、役割を逃れて好きなことをしているのだから、「自由を金で買わせる」という措置をとらないければ、偏りを是正できない。

 たとえば、「誰も読んでくれない小説を書き続けて、貧乏のまま、死んだ人」を不幸だと思うだろうか?
 その人は、書くことをやめて、お金を儲けるために働くこともできたのに、しなかったのだ。
 書くことが好きで、やめることができなくて、命のすべてを注いで書き続けたのだ。
 意志が強くなければできない生き方だ。
 弱者ではなく、強者だ。
 だから、保護する必要ない。

 しかし、「好きなわけではないが、自分にできることで、確実にお金が得られるから」と低賃金で単純労働についていたらどうだろう?
 「暇な時間に勉強して、高い技術を身につければいい」と思うだろうか?
 それができたら、その人は強い人だ。教材を買うお金を貸すとか、サポートの必要はあるかもしれないが、将来は自活していくだろう。

 体力さえあれば誰でもできる仕事は、多くの低賃金労働者と、少数の管理者という組み合わせから成り立っている。
 ピラミッド型になっていて、上に上がれば上がるほど、人数が少なくなっていく。
 だから、出世したいと思っても、出世できない人がほとんどだ。
 弱者とは、必要なことを運営していく歯車に組み込まれて、身動きできなくなっている人のことではないか。

 商店は、グレーゾーンだ。
 食べるための仕事だが、好きでやっている仕事でもあるからだ。
 だから、重荷を背負わせないが、飴も与えない。

 アイドルは、完全にブラックだ。
 「神を楽しませるために、精進する」という部分は消えてなくなり、人が人を楽しませるためにあるものだから。
 たとえば、「子どもたちが、ミカン箱のステージに立って、家族や近所の人のために歌う」は、同じ娯楽でも金銭が発生しないし、普段は必要を満たすためにそれぞれ働いている。賞罰の対象にはならない。
 しかし、「アイドルが、お金を取って、ファンのために舞台に立つ」は、規模によっては莫大な資金が入る人気商売となる。誰もがやりたがるから、「自由を金で買う」などの措置が求められる。
 そうしなければ、アイドルばかりに人が集まってしまって、必要なところに人員を確保できなくなるからだ。

 占いもそうだ。
 神託を受けて、国の行く末を占っていたころとは違う。
 個人の心の問題を鑑定しているだけなら、褒美の対象にはならない。
 あまり増えても困るから、重荷を背負わされるかもしれない。

 まして、理想の国の形を描くことは、君主制のころには許されないことだっただろう。
 まず君主ありきで、それを否定したら死刑になる。自由には描けない。
 表現の自由が許される現代でも、実行するとなったら、「どれを選ぶのか?」が問題になるだろう。
 政治家になるとか、弁護士になるとか、今ある法律を基準に、最善を求めていくのが一般的なんだろう。
 ゼロから自分の理想を求めて、それを小説に表現して、できればゲームで疑似体験してもらいたいと思うのは、少数派なんだろう。
 「天下はとるもの、とられるもの」というイメージがあったから、世界征服を求めたり、楽園を求めるのは普通のことだと思っていたけど、なんかちがうのかも。

 「わたしにはもう無理だ!」と何度も思って落ち込んだけども、望んじゃったところが変わっているのかも?
 みんなそうなんだと思ってたよ。
 やりたいけど、選ばれた人しかできない、みたいに思っていた。
 だからわたしなんかが手を出していいことじゃないんだ。でも誰もやってくれないかもしれない。望まない世界かもしれない。それなら全て捨てても自分が求めたい。そう思ってた。
 そもそもそんなこと興味を持たないのね。

 愚者は、必要を満たすために働くより、心のままに移動することを好む。
 だから、皇帝とは対立関係にある。
 わたしは、夢とか、行動とかは、愚者のそれなんだけど、価値観は皇帝のそれだった。
 だから、自分で自分に駄目だししてきたんだと思う。

 わたしの中の皇帝は、なんの取り柄もないのだから、自分の夢を見るより、人の夢を叶えるべきだ。妻として、母として、支える側になるべきだ。そういう。
 しかし、実際に専業主婦になってみたら、受け身で主体になれないことに満足できなかった。
 これでいいのだ。もう夢を追い求めなくてもいいのだ。
 そう思っても、どこか満たされない。

 エリーは弱虫だから、「病気や老化で家事がこなせず、働けもせず、でも勉強を続けることはできる」という追い詰められた状況になるまで、やりたいって言えなかった。
 やりだしても、迷ってばかりいた。
 2173年シリーズを書いて挫折して、もう無理だと一度は放棄したけれど、今日思い出したよ。 

 「そんなお金にならないことにお金をかけてどうする!」とも思う。
 でもやっぱりそれがしたいことなんだなって、改めて思った。

  どんな職業を選んでもいい。
  収入に応じて、課税する。
 その二つで得をするのは、自分の好きなことを貫ける意志の強い人だ。
 フィギュア職人のような心は満たされるが生活の役には立たない技術でも、パチプロのような生産性に関わらない不要なものでも、自由になったことで得をした人たちだ。
 でも、そういう人が増えれば増えるほど、必要なことのために酷使される弱者は自己責任を問われて放置されてしまう。

 底辺にいても、自由が欲しいと思えば、自由区で生きればいい。無法地帯も悪くない。
 しかし、「自由なんていらないから、必要なことを示して、それをすれば安心して暮らせる庇護が欲しい」と言われたら、国土保護のための集団生活を提案するだろう。
 集団生活についていけない人並み以下の体力の人などは、管理区で軽作業を受け持って暮らすことになる。
 保護区より自由が制限されるのが嫌なら、自由区に行って、自分の才能を試せばいい。

 その結論は、わたし自身にとって厳しいものだけど、今はそう考えている。
 もう一度あれこれ考えて、2173年という世界を構築し直さなければ。

 タロット1冊と占星術2冊の本を注文したので、それを呼んだり、いろいろしながらゆっくりやろう。
 占いのためにも、小説のためにも、たまにブログにメモしていこう。

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