なぜ人は人を殺してはいけないのか?

 論文の練習です。
 論になっている?
 まだ感想から抜け出していない?
 読んで、どちらか判断してください。

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 一緒に暮らしていく上で、いつ殺されるか分からなければ不安である。
 もちろん、サバイバルを肯定する価値観もある。しかし、安心して生きたいと思う人々が集まった組織の中では、安心を破壊する殺人は悪となる。
 内にあっては罪人となり、罰が与えられる。
 外にあっては敵とみなされる。
 感性の自由が認められるようになって、殺したいと思うことは自由になったが、実行することはゆるされない。
 なぜなら、「殺意が存在すること自体、不安を呼び起こす」という意見もあるが、心の中で思っているだけで外に出さなければ伝わることはなく、不安をかきたてられないからだ。
 では、「殺してやる」と言ったならどうだろうか?
 殺されるまで、本当かどうかは分からない。しかし、殺されてしまったら生き返らない以上、殺される前になんとかしなければ不安である。不安を呼び起こすから言ってはならない悪となる。
 ところが、「不安を感じさせた=悪」という理由で先に殺してしまったら、「不安を感じさせているかもしれない不安」が原因で不安にさせてしまう。
 どうすれば解決するのか?
 一つは、相手を信じることだ。それで先に殺す罪は犯さなくてすむ。
 もう一つは、簡単には殺されない強さを持つことだ。
 強さを持てば、悪用したくなるという考え方もある。しかし、本当の問題は強くなることではなく、力を正しく使わないことだ。だからわたしは強くなること自体は賛成だ。返り討ちにすることで互いを救うチャンスもできる。
 もし安心するために先に殺してしまったら、不安が本当だったのか分からないし、やり直しがきかないから、人は人を無条件には殺してはならない。
 しかし、ナイフを持って襲ってきて今にも刺されそうだという状況では、正当防衛が認められる。
 なぜなら、正当防衛で殺人を犯した人に対して、「あの人、人を殺したことがあるんですって。また殺人を犯すんじゃないかしら。次はわたしかも」などと不安を感じたりしないからだ。
 同じように、戦争で人を殺した人に対しても、「敵だから殺したのであり、味方なら殺さない=殺人が好きなわけではない=隣にいてもいきなり殺されない」という信頼が成り立つ。
 戦争では、殺さなければ殺されてしまうというはっきりした状況が、正当防衛の役割を果たす。第三者が、敵を殺した兵士に対して、不安を感じることはない。
 しかし、殺人を殺した兵士自身はどうだろう?
 殺す以外に方法があったかもしれない。
 状況が違えば友達になれたかもしれない。
 そういう答えのでない仮定の不安に耐えられるだろうか?
 間違っていないのだ。
 正しかったのだ。
 みんなのためになったのだ。
 そう信じきって疑わずにいられる人がどれだけいるだろう。そして疑わないように心を縛ることは心からの安心と言えるだろうか。
 死刑の執行にも同じ問題がついてまわる。
 ここまでをまとめてみると、「安心したいという欲求が本能であり、人々に共通した感情であるなら、それを満たすために人は人を殺してはいけない」となる。
 なぜなら、サバイバルを肯定する時、勝つ側になることが前提となるからだ。殺される可能性はあるが、勝つことができる。そう考えていれば不安ではない。
 また殺されることを望むものは、死ぬことを不安ではなく安心と感じている。「死んだらどうなるか不安でしかたがない」とか、「死にたくない」とか、「もっとやりたいことがあるから生きたい」と思っているわけではない。
 一般的には、生き物は行き続けたいと願うと考えられているので、死んで楽になりたいと感じるのは倒錯した状態であり、間違っていると判断する。
 だから自殺をしようとしている人を発見したら、死んでから「混乱していただけで本当は生きていたかった」と気づいても手遅れなので、「はやまるな!」などと止める。
 つまり、他人だけでなく、自分で自分を殺すことも罪なのだ。
 なぜなら、病気や事故がなければ、生きているという状態がずっと続くという安心を奪うからだ。
 「突然、恋人や友達や親や子に死なれない」という安心を奪う行為は、安心を求める人々には受け入れられない。
 人は安心を望む。
 だから、自分も他人も殺してはいけない。
 それがわたしの結論だ。

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 論文終わり。ここからは感想とか、近況とか。
 いまいちまとまりがないようなー。
 順番が悪いのか?
 まあ考えている人の真似をして考えたんじゃなくて、考えようとして考えた初めての文章なんだから、完璧じゃなくても満足しよう。パーフェクトは狙わず、ちょっとずつうまくなろう。

 書いていて、「ああ、だからドラマで『はやまるな!』って言うのか」と気づいた。他に言いようがないから、完結に言いたいことをいったら、みんな同じになるのね。

 この理屈でいったら、「反対すべきなのは準備することではない」となるから、法案成立自体には賛成ってことになるのかぁ・・・。
 そして、「必要なのは、運用の仕方に目を配ることだ」と続く。
 難しい問題だね。
 担当者じゃないから、「わたしにできることか?」を考えても意味がないし、担当者になりたいわけでも、なれるわけでもない。
 できるのは、ただ信用して「先に非難する」をしないことだけだ。
 つまり、「やったら非難」しかないのか?
 後手に回るのか?

 「安心」という意味ではそうだね。
 仏教的な個人の心の平安を求めるなら後手だ。
 でも組織を維持するという意味では、先手になるのかな?
 「振る舞いの違いを超えて、組織を維持するのに必要なことをしていたらよしとする」という組織対組織の問題を扱った、キリスト教的価値観だったらどうだろう?
 まだ読みかけだからよく分からないや。
 でも後手な気がするなあ。
 右の頬を打たれたら左の頬を差し出せとかなかった?
 そうだとしたら、後手を通り越して積極的に痛い目に遭っている!
 どうなんだろう。判断がつかないや。

 旧約なら先手だけど、新約なら後手かな。
 女性原理としては後手だけど、
 男性原理としては先手ってところかな。
 じゃあ、両方あわせたらどうなるの?
 うーん、結論でない(笑)

 昔、小論文の書き方を習ったけど、「組織に所属していれば同じことをするように求められる=心から思っているかどうかは関係ない」という部分が分からなくて、結論から取捨選択していくことができなかった。
 聖書を読んだり、娘に物語の箱書きを見てもらって評論されているうちにやっと自分に足りないものに気づいて、世界が突然明るくなったようだ!

 それで、ニュースとかみて、わたしならどう考えるのか気になっていたし、「ああすればいいかも!」というアイデアを試してみたくて、書くのが嬉しくて書いてしまった。
 でも論文って疑問が疑問を呼ぶよね。「じゃあ、こっちの立場からみたら?」「この視点で切り取ったら?」みたいな。終わりがない。永遠に続いて、眠れなくなりそう(笑)
 面白いといえば面白い。

 大切なことだから、自分で考えてみる必要があると分かるようになったけれど、エリーは面白くないと続かない。
 昔は、自分が心から思ったことじゃないと考えられなかった。考えようとして考えるとどうしていいのか分からなくなっていた。やっと考えるときのコツがわかったよ。みんなが誰なのかがわかってなかった。同じ考え方をする人々のことだ。
 考えることを人に聞いて教えてもらおうとしてきたけど、どうしても分からなかった。すごく困っていた。でもいろいろ話したり、習ったりしといてよかった。もうだめかと思ったけど、あきらめなければ、続けていれば、意味が分かる瞬間というのはくるものだ。報われた思いだ。

 エリーは体が弱くて働いてない。検査してもらって、体力がないだけで、病気ではないと分かったけれど、状況が変わるわけではない。無理ができないし、休まなければならない。
 だから暇だけはある。
 それで、「世界一有名な本だし、いったい何が書いてあるんだろう? そんなに面白いのか?」と聖書を読み出した。
 最初は物語だから確かに面白かった。でも、一族の名前とかがズラズラでてきたときは、「それがいったいどうしたんだ!」と不謹慎にも思ってしまった。
 一族のための法律なんだから、その記述は必要だと今ならわかる。なかったら意味に気づかなかっただろう。
 途中であきて、途切れがちになったけれど、なんとか新約の手紙のあたりまできた。そしていろんなことを発見した。
 もちろん、それは今のエリーが感じ、考えたことであって、あとで変わるかもしれない。
 でも読んでよかったなと今は思う。
 「暇だからって好きなことをして遊んでばかりでよくない」と自分で自分を責めていたけど、暇だからといって聖書を読むことに時間を使うとは限らない。
 知ろうとすることがよいことなら、もっと自分に自信を持ってもいいのかもしれない。
 とりあえず、自分で自分を非難するのはやめようと思った。
 楽しくたっていいじゃないか!

 エリーはイブになりたかったし、なるべきだと思っていた。自分で善悪を判断できないから、指導される存在でいたかった。
 でもリリスに生まれてしまった。心から望むことをしてしまう。
 ずっとイブになりきれずに悩んでいたけれど、リリスとして生きるのも悪くないと思えるようになった。自分をあるがままに受け入れられた。
 自分を受け入れられてはじめて、「理想と現実が食い違うと悩む」という意味が分かった。そして安心できるようになった。
 自分を受け入れるためには、条件付ではない無償の愛が必要だという意味も実感できた。組織の中で役立ち、みんなと同じになる一体感を求める愛ではだめなのだ。心からの愛が必要。
 まだまだ未熟だけどちょっぴり成長できた気がする。

 もし、心のままに振舞うのがリリスであり、善に従うのがイブなら、心から善に従うことを望む人は誰なんだろう?
 マリア?

 楽しいだけじゃないが、楽しく思っている。
 自分の望みだけではなく、組織の望みも分かっている。
 好き嫌いだけでなく、善悪を知っている。
 そういう女性原理と男性原理を兼ね備えた人を大人と呼ぶのだろう。

 大人は大人だけど、男性原理は上手に使いこなせない。
 基本、女性原理の人だから、父ではなく、母なんだろうな。
 そうかエリー、マリアさまになりたかったんだ。
 なりたいものが見つかってよかった。
 ずっと「カンフーの達人になって、世界を旅する」とか、向かないことばかり望んでいたけど、自分にあった目標が見つかってよかった。

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