自由の範囲

とりあえず頭の中を整理してみた。

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衣食住を整えることが、生活には欠かせない。
自分ひとりなら、
 雨風がしのげる安全な場所を見つけて、
 木の実などを食べて、
 裸のまま暮らしてもいいだろう。
必要なことをしたら、あとは自由。
猫のようにボーっとしていてもいい。
自分のために、自分が働くのだから、何を選んでも誰からも文句はでない。

もし、食べて寝てだけでなく、もっと良くしようと思ったら、ボーっとする時間は減るだろう。
それでも、自分のために自分が働くのだから、文句はでない。
自分の意志で選んだことだから、自由を損なっていない。

では、生まれながらに集団に所属していて、役割を期待されたなら?
集団の圧力に逆らって、違う選択をしようとすれば、追放などの処罰を受けるだろう。

支配力が最大となり、モノ扱いされた時代を経て、自分のことを自分で決める権利を再び手にした。
しかし才能を生かして生きる権利が認められても、「集団を維持するためにしなければならないことがある」という問題はなくならない。

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誰がやってもいいけど、誰かがやらなければならない仕事がある。
誰かがやったら、自分はやらなくてもいい。
そんなとき、どんな問題が起きるだろう?

お金がもらえるなら、手を上げる人がいるだろう。
利益が高いところに人が多く集まり、薄利なところは跡継ぎが見つかりにくい。
自由にまかせて必要な場所に人材が不足すれば、サービスの高騰、サービスを受けられないなどの問題がでてくるだろう。

無償奉仕なら、押し付け合いになるだろう。
自分ひとりで完結することなら、黙って引き受けても誰も気づかないかもしれない。
交替で引き受けなければならないなら、やり方をめぐって意見が対立するかもしれない。
高齢や病気で引き受けられなくなるかもしれない。

どちらの場合も、様々な問題が起きる。

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生活の運営に関わることは、自分にも影響がでる。
だから、他人のことでも、自分の意見を言いたくなる。
もし、「自分のやり方は曲げたくないが、相手には自分の意見を全部聞いてほしい」と思い、思い通りにならない相手を力でねじ伏せたら、プチ暴君になってしまう。

平行線が続いて、「もう殺すしかない」と考え、実行に移したらどうなるだろう?
あるいは、思い通りにやった結果、失敗してしまったら?
運営上のさまざまな問題は主権者が王から国民にかわっても残る。

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「平等に接する=誰でも同じように接する」と考えた場合、二つのやり方がでてくる。
一つ目は、「個性により対応は異なるが、誰が相手でも同じ」だから平等というもの。優しい人は誰にでも優しく、厳しい人は誰にでも厳しい。
二つ目は、集団が共有している価値観に従うというもの。本音は問題にならず、建前が重視される。

一つ目は、自由だけど、相性の問題がでてくる。誰と一緒になるかで大きく変わる。
二つ目は、不自由だけど、誰もが同じ条件で扱われる。誰と一緒になっても変わらない。

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「権力者が何でも決める=手足としてモノのように扱われる」から自由を獲得して、「自分たちで決める=頭を交換できる」になった。
しかし、「頭にもなれる」を得ただけで、「手足のように動く」が必要なくなったわけではない。

国民全体が、「法律を守り、税金を払う」という形で、国の支配を受けている。
しかし、組織化されているわけではない。
戸籍はあるけど、命令系統があって、いつでも必要なときに行動を求められるわけではない。

組織化され、実際に行動するのは、公務員。
職種によって、さまざまな役割を引き受ける。
しかし、公務員だけで、国の全てをを動かせるわけではない。
ところが、自由になればなるほど、自分のことに限定されて、社会や国に関わることはしなくなる。
関わる機会もないし、関わりたいとも思わなくなっていく。

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個性に由来する場合、「優しい人は、誰にでも優しく」は良くても、「暴力的な人は、誰にでも暴力を振るう」は困る。
もし、「暴力的なのは個性だから」と言い出し合ったら、どうなるだろう?

天国が、天国らしくあるためには、天国らしい振る舞いをしなければならない。
もし、天国らしさを損なうような行為をすれば、たとえそれまで天国だった場所でも、一瞬で地獄に変えてしまう。
つまり、行為が天国と地獄を作り出すのであって、神が選別するわけではないのだとわたしは思う。

天国らしく振舞うことをよいと考え、よいことを選べる。
そういう資質がなければ、狭い地域で、同じ顔ぶれで暮らし続けることは難しい。

天国に憧れるが、欲望を捨てられないなら、天国よりも自由な場所で生きる方がいい。
天国をよいと思わないなら、何でもありの地獄で生きる方がいいだろう。

自由裁量を認めれば、やり方次第で、天国よりも住み心地がよくなるかもしれない。
反対に、地獄よりも辛い場所になるかもしれない。
一瞬で変わってしまう危険と希望があるのは、自由だから。
良い点もあれば、悪い点もある。

自信がある人にとって、運と実力で道が開ける世界は、面白い場所だろう。
わたしは無法地帯で生きたいとは思わないけど、選ぶ人はいると思う。

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たとえば、家族で田畑を耕して自給自足の暮らしをしていたとしよう。
家族の中で、農作業より歌や踊りが好きな子がいたとしよう。
家の仕事を手伝いながら、暇な時間に歌や踊りを楽しむなら文句もでないし、みんなも一緒に楽しむかもしれない。
しかし、農作業はしないで、芸事に専念したいと言い出したらどうなるだろう?

家族だけで暮らしているなら、芸事に専念する意味はない。
しかし、もてなすことで有利になる他人がいるなら、芸事に専念することに意味がでてくる。
接待することで、思い通りの結果を手に入れられるかもしれない。
さらに進んで、芸事で生計を立てる人がでてくるかもしれない。

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全員が働かなくても十分な生産力があるなら、芸事に専念することは可能かもしれない。
しかし、他の家族はどう思うだろう?
 親なら、子どもの自由にするかもしれない。
 兄弟なら、憧れたり、嫉妬したりするかもしれない。
 芸事に限らず、「自分が本当にしたいことだけしたい」と言い出す子が出てくるかもしれない。

芸を極めれば、自然に尊敬があつまり、名誉もお金も集まるだろう。
しかし、「生活に必要な条件を整える=共同」という意味では、芸事は必要ない。
ところが、「人が望むものを引き受ける=分業」という意味では、高い価値を持つ。
矛盾する関係が、貨幣経済でも表面化する。

優秀な人材が、芸事に集まってしまうのは、国家運営という意味では望ましくない。
しかし、経済活性化という意味では、国としても意味がある。
それでも、生活に関わらない産業ばかりが栄えても、生活に必要な条件が整っていなければ、生活に支障が出るだろう。

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一つの方針に決めようとすれば、強制力が働く。
自分の考えを実行することを許せば、自由になり、バラバラになっていく。

バラバラになれば目標を共有することができない。
目標がなければ、客観的な判断ができない。
客観的な判断ができなければ、価値を共有できない。
価値の共有ができなければ、好みで批判が始まる。
個性を理由に、感性の自由が問われ始める。
あるいは、誰もが共有しているお金が基準になってしまう。

たとえば、「国土保全」という大きな目標を掲げた場合、「どう保全するのか?」を自分たちで決める権利を与えることができる。
なぜなら、目標に対して客観的な評価をすることができるから。
結果がでることだから、「いい・悪い」がはっきりする。
外枠があるから、内側を自由にデザインできる。
感性の自由はないが、やり方を決める自由はある。

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民主主義の勝利には、「自分らしく生きる権利=感性の自由」が含まれているのだろうか。
それとも、「運営の仕方を決める権利=決定の自由」に限定されているのだろうか。

辞書を引いてみて、民主化運動が始まった当初からいろいろな考え方があることを知った。
感性の自由が含まれる・含まれない、両方ある。

わたし自身は、考えたことがなかった。
でもとても重要なことのような気がする。

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「2173年、日本」の設定でいったら、
 感性の自由を認めず、価値観の共有を求めるのが保護区。
 他人の権利を犯さない限り、感性の自由を認めるのが自由区。
 他者に影響を与えるような感性の自由も認めるのが無法地帯。
という感じになるのかな。

自分でもまだ消化してないのでよくわからない。

表現の自由は、感性の自由ともいえる。
外部に向かって思想・主張などを表現する自由を意味するそう。

日本の場合、儒教の教えが政治に影響を与えていたらしい。
仏教的価値観も無視できない。
外国の場合も、キリスト教やイスラム教など、宗教的価値観が前提になっている場合が多い。

メジャーな宗教の場合、細かいところに違いはあっても、基本的な方針は変わらない。
五戒のうち「殺すな、盗むな、犯すな、騙すな」は、どこの国でも同じだと思う。
「飲酒」も、生活に支障が出るほどになれば、どこの国でも「悪」扱いな気がする。

たとえば、王政を批判し、民主化を望む時に求められた「思想を表現する自由」は、その当時の考えとは異なるけど、宗教的な価値観には反していない。実行してこそ意味があるし、実行された。
では、小説「悪徳の栄え」に出てくるような「拷問しては殺す」はどうだろう?
実行したら犯罪になる。犯罪にならない世界は恐ろしい。
だから小説として表現する自由はあるけど、実行する自由はない。

小説「悪徳の栄え」を読んで、「やりたい」と思うか、思わないか、どっちか。
感性の問題であり、「やりたい」と感じてしまうことは本人にもどうしようもないだろう。
しかし、「やらないこと」は可能だし、思いとどまることを求められる。

表現の自由があっても、「わたしは人を拷問して殺してみたい」と表明できるだろうか?
たとえば、教師、聖職者、医者、警官、首相などが言ったら?
思うだけで実行しないならOKとなるだろうか?
「そんな人に任せられない」ってなるだろうなぁ~。
「自分がやりたいこと」をやったら困るなら、感性の自由はないのかもしれない。
集団に所属する限り、「犯さず、殺さず」という建前を守ることが求められる。
「いつでも本音で生きられる人は、運がいい」ともいえる。

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どんな状況なら、感性の話が出るのか分からないけど、そろそろお話部分を作り出そうかな。

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