父親的な存在

 チャンスは誰にでもある。しかし、勝つほどに残るものは減っていく。
 最低限の平等を保障するセーフティネットも、勝負が佳境に突入すると機能不全に陥ってしまう。

 親が勝っていれば、子どもが負けていても問題は表面化しない。
 だから今はいい。しかし10年後は分からない。そんな世帯がたくさんある。
 いずれ老いた親を世話しなければならないのに何もできない。そんな不安を抱えながら毎日を過ごしている。

 既に頼る人もなく、行き詰った人も出ている。一度落ちれば、抜け出すことはとても難しい。

 一人が何百人も支えるいびつな世界は自由とはほど遠い。
 億万長者が慈善事業を支える世界ではなく、応分に収入を得て自活する世界こそ望ましい。

 しかし、変化に対応すれば、自然と勝負が始まる。
 規則に縛られた世界では、変化に対応できずに滅びてしまう。

 競争は必要だ。
 しかし、平等もまた必要だ。

 そんな風に、自由競争と平等は対立し続ける。どちらも必要にも関わらず、両立することはとても難しい。

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 みんなで働いて平等に分配する暮らしは、やるべきことがはっきりしている。
 役割さえ果たせば、比較的自由に暮らすことができる。
 地味だけど安定している。イメージは専業主婦の暮らし。節度を守らなければならない。

 実力勝負の暮らしでは、やりたいことが優先される。
 興味や関心は際限なく広がっていく。
 華やかだけど気疲れする。イメージは芸術家の暮らし。新しいものを生み出さなければならない。

 家族など、関わる人間を平等に扱う暮らし方は不自由が多い。我慢も多い。
 それでも続けることができるのは、互いに好きだから。
 愛情なしに結果平等の原則を守ろうとすれば、厳しい規律で縛るしかなくなるだろう。

 お金と恋、どちらを選ぶか迷うこともあるだろう。
 しかし、お金がない上に恋してもいないなら、迷わずノーと答えるだろう。

 両方手に入れば一番いい。しかし、どちらか一方しか手に入らないなら、どちらを選ぶだろう?
 わたしなら、努力次第で手に入るお金(仕事)を選ぶ。愛されるための努力は、あてどなくて虚しい。

 そもそも愛される自分を想像できない。隣に座って大人しくニコニコなどイメージできない。
 結局、愛でられる自分を想像することはできなかったけど、愛でる自分なら想像できるようになった。
 犬や猫や赤ん坊を可愛がるように「眺めているだけで幸せ」と満たされる。そういう好きは、相手の状態に左右されない。怒っていても、笑っていても関心を持ち続ける。関心を持てることがあること自体、幸せを感じる。
 しかし、そんな好きは努力して手に入るものではない。あるか、ないか。二つに一つ。代わりもきかない。

 恋は、突然生まれていつまで続くか分からない。
 もし恋が永遠に続くと信じられて、「あなたが世界」ということができれば、小さな世界に幸せを見つけられるだろう。

 たとえ片思いでも、恋すること自体が生きる支えになる。
 意味が分かって、そんな関係に憧れを持つ。けれど、それだけでは終われない何かがある。

 お金が欲しいというより、人から必要とされる何かをしたいのだと思う。欲しいのはお金というより役目。
 しかし、どんな役目でもいいわけではない。
 何がしたいのか、何ができるのか、今は分からない。見つかるのかさえ分からない。
 それでも、求め続けてしまうのだろう。性格は簡単には変わらない。

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 いつの世にも逆らう自由は常に残されている。不可能を可能にする人物が生まれてくる。
 しかし、多くの人にとって不可能は不可能のまま終わる。不可能を可能にする人物像を想定した人生設計は、どれだけ華々しくても間違っている。勝ち続けることを前提にすれば、こぼれおちる人がたくさん出てくる。

 一人一人が不可能を可能にしようとすることはすばらしい。主観では正しい。
 しかし、計画は失敗も想定しなければならない。客観では間違っている。
 もし、客観で「正しい」と言ったらどうなるか?
 「自己責任」という言葉になるのだと思う。

 構造的に誰かが押し出されるなら、責任の取りようがない。
 無理して責任を取ろうとすれば、他人に押し付けるしかなくなってしまう。

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 もし、自由選択を認めず、優秀なものから跡取りとして育て上げる時代になったら?
 趣味でたしなむことはできるけれど、職業にすることはできない。そんな不自由な世界になったら?
 それでも親子の縁を切って逆らう自由は残されている。実際、逆らった子どもも多いのだろう。
 反対に、実子に後継ぎとしての能力なしと判断されたら、養子をもらうことも多かったそう。

 社会を維持するために、あらかじめ生き方を決められてしまう。
 そんな世界に戻ったら、今より不幸だろうか?
 誰もが自分で選択したいと思っているのだろうか?

 もし、わたしが母の仕事を継いで美容師になっていたら?
 美容師をするだけの体力がないから続けられなかっただろう。
 無理と分かって、どうしたんだろう。

 もし、学校というものがなくて、昔の子どものように野山を走り回る暮らしに戻ったら?
 丈夫な子どもはいいけど、丈夫でない子どもは不適格の烙印を押されてしまわないだろうか?
 そうなったら自由区に出て自分の居場所を見つけただろうか?

 もし、保護区を管理する人間が、強弱による選別を正しいと考えて、優秀な子どもを優遇したらどうなるだろう?
 閉鎖された世界で、何に希望を持つのだろう?
 しかし、そうやって追い立てる人がいなければ、食べて寝てという暮らしに満足して、何もしないで終わらないだろうか?
 活力を失って、機能不全に陥らないだろうか?

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 平等を基準とする世界と、自由を基準とする世界の間には、壁となる人間が必要なんだろうか?
 結果は平等だけど、役割は能力によって差がつく。
 そんな世界で、一番になるために争いが起きるのだろうか?
 投票するのは一緒に行動する人間。自分も直接関わる小さな世界での一票は重い。

 父親的な存在が、探し求めた尻尾なんだろうか?
 選別を善と考えて、能力にふさわしい評価を与える。
 そんな長がいてこそ成り立つ世界なんだろうか。
 なんだか映画「Always 三丁目の夕日'64」を思い出す。

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