問われていること

 気持ちを落ち着けるために、震災の問題点を整理してみよう。

 わたしの結論は、やりかけたことをやり遂げようだった。

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 最初に決めるのは、復旧か、退避か。

 復旧するなら、支援の仕方が問われる。
 退避するなら、定住先が問われる。

 大切なのは、生産と物流を止めないこと。

 もうひとつ、今は平時なのか、有事なのか、はっきり宣言すること。
 目指すべき「生活水準」が大きく変わってくる。

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 まずは、被災地。

 一週間以内に交通網とライフラインが復旧するなら、とどまって家に戻りたいし、戻った方がいいと思う。

 ライフラインなしの生活は、荒野を開拓するようなもの。体力と技能がなければ、突発的な出来事に対処しきれない。
 街中なら、風邪や怪我で助けを求める病院がある。ひどい場合は救急車を呼べる。しかし、被災地ではそうはいかない。少ない物資で、その場にいる人間で対処するしかない。
 「雪山を登山」は誰にでもできることではない。だから、長引く場合は、支援より退避を基準にする。

 復旧の見通しが立っているなら、復旧作業に参加できる人だけ残って、それ以外は近くに退避した方がいいと思う。
 一回にトラックに積める量は限られている。復旧に不要な人員が退避すれば、残った人たちが数日分の食料を確保した状態で作業できるようになる。
 長期間非常食だけで肉体労働をするのは無理だと思う。しかし、調理して食べるためには燃料がいる。だから人数が増えれば、増えるほど、すぐ食べられるものに頼らざるを得ない。

 「誰の命も大切にすること」と「復旧という目的に支障になる」は、混同してはいけないと思う。
 退避する方が、どちらの命も守ることにつながる。

 復旧のめどが立たない場合、近畿や九州など遠方に退避してもらう。
 そこで復旧のための仕事に就いてもらう。
 ただ待つことほど辛いことはないから、「これをすれば復旧につながる」という仕事をしてもらう。
 行政が所有する「野外合宿センター」などを利用すれば、広場やホールに簡易作業所を作れる。
 炊事・清掃・洗濯・作業など、チームに分けて働けば、全寮制工場のような形にできる。

 そういった活動も難しい場合、病院やケアセンターに受け入れてもらうしかないと思う。
 繰り返しになるけど、「復旧作業」と「人命救助」は分けて考える必要があると思う。

 主要道路・交通機関は、フル回転で復旧しているので近いうちに通れるようになるだろう。
 しかし、個人宅につながる道路まで復旧させることはすぐにはできない。
 燃料も足りない。必然的に、徒歩での移動が中心になる。
 具合が悪くなっても、大人が大人を背負って移動することは難しい。
 だから、歩けるうちにインフラがある地域まで移動してもらう。
 問題が起きてからでは、対処が難しくなる。

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 移動は一回だけど、支援は復旧するまで続けなければならない。
 何カ月も、何年も、何十万人の食事と生活用品を支援し続けることは不可能。
 「生産者が、使用者に支援」ではなく、「使用者が生産する」に整える必要が出てくる。

 通常の地震は、一つの県くらいに収まっている。
 6+、5、4が県内、3以下が県外というケースが多い。
 ところが今回は、何県にも渡って被害を受けている。
 ほぼ東日本全域が被災している。
 その上、まだ震度4クラスの余震が続いている。

 被災地に挟まれた場所では、短期間に生活できるレベルまで物流が戻ることは期待できない。
 「各自が、店で購入」までは、なかなか戻らないと思う。
 「各自が、避難所にとりに行く」という状況が続く。
 「行政が、来られない人の家まで配る」は、復旧作業が続く中では難しいと思う。
 しかし、徒歩で重い荷物を運べる人は限られている。数回なら可能でも、長期化すると疲労を回復できない恐れがある。

 買い物難民は、もともと起きていた問題。コンビニなど豊かな物流に支えられていた。
 道路が寸断されたことで、改めて問い直されている。

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 続いて、首都圏。

 再び福島原発から、電力が供給されることはない。
 ぎりぎりの電力がずっと続く。
 店や工場や病院はもちろん、通勤・通学者も、今の状態が続けば疲労がたまっていく。
 計画停電では限界がある。

 工場や交通機関が止まると、生産と流通に支障が出る。
 調整するなら、個人になるだろう。

 単純に考えて、100件の家で電気をつけるより、50件の家で電気をつけた方が電力は少なくて済む。
 一人分の食事を作るのと、二人分の食事を作るのは大差がない。
 しかし、一人分ずつ別々に作ると使用電力は倍になる。
 暖房も同じ理屈で変化する。

 だからといって、強制移住させて、まったく知らない人と同居させるわけにもいかない。
 外食を強いられれば、お金が続かない。
 そこで問われてくるのが、国家非常事態宣言を発動するのか、しないのか。

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 学校給食は、一食分がとても安い。
 全員が同じものを食べるから可能なこと。
 個別に自炊するより、一括調理する方が無駄がない。
 ただし、設備が必要になる。

 観光産業、レジャー産業、飲食産業は集客が難しくなる。
 収入を減らす人が増えるだろう。
 しかし、給食センターとして活用すれば、店も利用者も助かる。

 なぜ、買占めをするのか?
 物資が入らなくなる不安があるから。
 「いきわたらせる方法」が確立していないから、自己防衛しようとする。

 どうすれば保障できるのか?
 避難所に物資を配ることは易しい。
 個人宅に物資を配ることは難しい。
 この理屈は、被災地以外でも同じ。

 しかし、避難所に集めて配給するほどひどくはない。
 大勢を一か所に集めたら、むしろ混乱するだろう。自炊の設備も不十分。
 閑古鳥が鳴いている飲食店を利用する方が現実的だと思う。
 調理設備も、食事の場所も既にある。必要な物資を配送するだけですむ。
 また、組合のような組織に所属していることが多い。数や連絡先を把握しやすい。短時間で体制を確立しやすい。

 三食ずっとでは大変だから、食事と移動が重なる朝と夕だけでもいい。
 寒い中で節電するより、数か所に集まった方が暖かい。
 定期的に顔を合わせることで、非常時に連帯しやすくなるだろう。
 食事が終わってから、話をする機会もできるだろう。

 情報同様、物理的に「ハブ」になるポイントが必要なのだと思う。

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 今の状態が続けば、低所得者ほど生活に行き詰る。
 集団で行動せざるを得なくなってくる。
 しかし、平時なら「あなたは、○○で食事しなさい」と命じることは難しい。
 国家非常事態宣言中なら可能になる。

 法による規制は、詐欺や恐喝などの犯罪から守るためにある。
 失敗して被害に遭うのが当事者だけなら、挑戦してもらった方がいい。
 うまく行きそうなら、一般にとりいれればいい。
 研究してから一般化するより安上がりで確実だと思う。
 リスクを押し付けたわけではないし、誰でも挑めるわけではないのだから。

 問題は、自力では対処できない人たちをどう守るか。
 「ああしなさい、こうしなさい」と命じて必要な段取りをつけるためには、「命令できる理由」が必要になる。

 たとえば、使用済み核燃料は3年くらいかけて熱を下げていくそう。
 最低でも3年は予断を許さない状況に置かれる。全体が復旧して安定するには、さらに時間がかかるだろう。
 だから、「5年間」と期限を切って統制下においてしまう。

 長めにとって短期で終結する方が、延期するよりましだと思う。
 最悪なのは、何の目安もないこと。
 混乱がいつまで続くのかわならないなら、期限を設定して呼吸を合わせた方がいいと思う。

 外国も国民も、そういった「指導力」を政府に期待しているのではないだろうか。

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 個別の暮らしに慣れた今、集団生活は辛い。
 生活できるなら、無理強いする必要はない。
 自営できるなら、自営した方がいい。その代わり、住居や食事も自分持ちにする。

 しかし、自営できない人は、「自力で頑張れ」と言われても困ってしまう。
 食べ物と寝る場所と仕事を確保して、生命を守る必要があると思う。

 世界を相手に利益を出せる企業には、しっかり稼いで税金を納めてもらう。その代わり、被災者支援は求めない。

 国民の生活維持に必要な産業は、利益の有無を問わず、生産し続けられる体制を作る。
 一時国営化するくらいの大変革をしないと、物はあるのに食べられない人が続出する恐れがある。

 「富裕層と低所得層」という二極化ではなく、「外部産業と内部産業」という二極化を目指す。

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 経済とは、何を意味するのか?
 「必要なものを、必要な人に、必要なだけ届ける」であって、「売り上げを伸ばす」ではない。
 百年続く企業や商店が多い日本では、お客がいてこその商売だとよく分かっている。実際、多くの企業が無償提供を申し出ている。

 原料をもらって、生産して、販売する。
 通常は、「原料を売って、お金を得る」「入手したお金で、必要なものを買う」という流れになる。
 お金が、「必要なものをいつでも手に入れられる」という保証として機能している。

 お金の分だけ、必要なものがあるわけではない。
 お金がなくても、必要なものはあるかもしれない。
 しかし、必要なものを流通させるための「信頼」がないから、流れていかなくなる。
 また「誰でも必要なものが手に入る」なら、「苦労して生産する必要はないのではないか?」という疑問が出てくる。

 誰でも、自分の仕事の大変さは知っている。他人の仕事の大変さは知らない。
 比較して、損得を言い出したら、お金で取引する以外なくなってしまう。
 しかし、「簡単でも、難しくても、誰かがやらなければならない」という視点で見た場合、「何をしたか」ではなく「必要が満たされているか?」が欠かせない。

 「金銭による自由取引」から「全員に行きわたらせる」に方針を切り替えるためには、どうしても国家非常事態宣言を出して統制する必要が出てくる。
 もちろん、国有化するわけではない。一時的に管理するだけ。

 ほっといても自力で生きられる人は、ほっといた方がうまくいくと思う。
 うまくいった人から援助を引き出して、うまくいかない人を支援するのが、行政の存在意義なのではないか。

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 わたしはいざという時、動けない。
 だから、みんなが働いている時に見ているしかない辛さがよく分かる。

 電化製品に囲まれて、車で買い物できて、家族が近くにいるからなんとか生きていられる。
 どれか一つでも欠けたら、途端に行き詰ってしまう。
 だから、「科学の力で、自然の摂理に逆らって生きている」という感覚が強い。
 困難な場面では、「自分がいなければ助かるかもしれない」と考えがち。

 下痢が続いて脱水症状に陥っても、病院で点滴を受けることができれば助かる。
 しかし、点滴が受けられない環境なら、衰弱していく。

 途上国では、下痢が原因で亡くなる人はたくさんいる。
 日本だから生きていられた。
 点滴を受けるしかない状態まで悪化したのは、たった一回。
 しかし、たった一回でも回復できなければ死んでしまう。
 人の体はとても弱くはかない。

 経済状況が厳しくなって、疲れても休めない状況になったら、数日で酸欠になって歩くことも難しくなるだろう。
 恵まれた環境で難しいのだから、厳しい環境では確実に生きられない。

 だから、避難所で若者に食べ物を譲って食べない老人の気持ちがよく分かる。
 昔の人って我慢強いから、食べてなくても「食べた」と嘘をついてでも相手を生かそうとする。

 日本人は「自分の命を守るための合理的な判断」ではなく、「所属する集団を守るための合理的な判断」をしがち。
 しかし、そういった感覚があるからこそ、大災害を前にしても冷静さと秩序を保っていられるのかもしれない。

 確かに、機能別に指揮する指導力には欠けているかもしれない。
 でもわたし自身は結構厳しい見方をするから、余計に優しい資質を好ましく思う。

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 一言で表せば、これから何が起きるのか?
 「消費電力や生活水準を昔に戻す → 高度医療を放棄」なら、生死観が問われる。
 「健康で文化的な生活を送る権利」から「死に方の選択」に変わると思う。
 危険や無理を承知で働かざるを得なくなる。

 わたしは、他人の欲望のために利用されて死ぬのは嫌だと思う。
 しかし、何かを生かすために死ぬのなら、いつか死ぬのだからいいかなと思う。

 人によって「子ども」だったり、「業務」だったり、次の世代につなげるものはいろいろ。
 でも、「生きるために生きる」は、正直とても息苦しい。
 何かをするために生きて、終わったら死にたいと思う。

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 事実を伝えるとか、情報のつなぎ手になるとか、わたしには報道関連の役割は無理だった。
 「なんとなく見続けて、ある瞬間イメージがつかめる」という理解の仕方なので、何が問われているのか、かなり後になるまで理解できない。

 でも、生死観の方ならやれることがあるかもしれない。
 「物語る」とは、「生まれてから死ぬまでの出来事を語る」という意味なんだと思う。
 プロの小説家ではないけど、一番得意な分野。

 放射線を大量に浴びれば、即死の恐れがある。
 少量でも、発ガンの恐れがある。
 しかし、発症するとしても20年後くらい。
 わたしは今年38だから、58くらい。

 正直、「動けなくなる前に、やりたかったことはすべてやろう」と好きに過ごしたので、恐怖はないし、不満もない。
 そもそも愛知だから、いますぐ危険はない。

 福島原発が想像以上に危険な状態だと気づいて、いろいろ迷った。
 しかし、覚悟が決まった昨夜は、図書館で借りた本を読む余裕が出てきた。
 わたしは、日本語しか話せないし、日本が好きだから、死ぬまで日本で生きたいと思う。

 自分の身すら守れないのに焦ってもどうしようもない。
 やりかけたことを最後までやろう。
 そのためには、知識を増やすことが欠かせない。
 借りた本、買った本を読みましょう。

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 書きかけの小説「竹林の家」は、一章が神話になっている。二章から現代になる。

 神話の最後に、「地鳴り」が出てくる。
 その神話を書いたのは、去年の初夏くらい。
 地鳴りの怖さを知った今、そんな神話を含む小説を完成させることに疑問を感じるようになった。
 次に書きたい小説「2173年、日本」も、「2173年より今でしょう!」という気持ちになる。

 それでもやっぱり完成させることにしよう。
 ちなみに、小説「竹林の家」の冒頭の神話は以下のような内容です。

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01.兄弟神

 世界は、闇から始まった。
 原初の闇は、果ても終わりもなかった。過去も、今も、未来も、重なり合い、全てに通じていた。
 闇の中で、無数の塊が集まり、散らばり、不規則にうごめいた。ぶつかるたび、熱を生んだ。熱は、塊を招いた。すると方位とともに、対流が生まれた。
 闇は脈打ち始めた。すると音とともに、時間が流れ出した。
 時間は、闇を切り分け、兄神を生んだ。
 兄神は、闇の中、独り生きた。形のない彼は、闇と溶け合い、闇をさまよった。
 彼は叫んだ。叫び声は、闇に広がった。けれど、彼の声を聞くものはいない。彼に気づくものもいない。声は、彼自身に返った。
 兄神は、独りを嘆いた。彼を生んだ闇は、彼の嘆きに共鳴し、震えた。すると光とともに、空間が広がった。
 空間は、光を切り分け、弟神を生んだ。
 兄神は、弟神に呼びかけた。すると音と光が響き合い、地上が姿を現した。
 地上は、柔らかく、泡立っていた。
 弟神は、地上を歩きだした。兄神は、弟神の後を追った。すると昼と夜が生まれた。
 時間が姿を現し、激しく流れだした。昼と夜が、死を持つ生きものを照らした。
 兄神は、闇の中から、生きものたちに語りかけた。しかし、誰も、神の名を呼ばなかった。誰も、祈りの声を上げなかった。
 弟神は、光の中から、生きものたちを見守った。すると生きものたちは、弟神の歩みに合わせて暮らし始めた。 日々は、神の存在を暗示した。人は、自然の中に神を感じた。
 兄神は、悲しんだ。彼は、生きものたちと交わりたかった。しかし、小さな命に、大きな命は見えない。彼の願いは叶わなかった。
 弟神は、兄のため、自らの体を切り分け、人に与えた。すると人は、神に語り始めた。
 兄神は、人びとの声を聞いた。人は正しきことを求め、勝利を願った。
 神は、人を愛した。しかし人は、次第に神を忘れ、勝つことに夢中になった。
 地上は、敗者と死者であふれた。
 兄神は、争いを憎み、嵐となり阻んだ。風と雷が人を襲った。人びとは恐怖に震えた。
 弟神は、死者の魂を受け入れ、清めた。人びとは、神を思い出し、許しを求めた。神の家を建て、美しい女を嫁として住まわせた。
 神は、女を愛し、大切にした。
 女は、神を信じ、健やかに生き、死んだ。
 神は、死の悲しみを知った。慟哭は地を震わせ、人びとを困惑させた。
 人びとは神殿に通い、神を慰めた。すると地鳴りが静まった。それから、神詣では、神を鎮める儀式となった。
 時が流れ、人びとは再び神を忘れた。後には、由来の分からぬ習慣だけが残された。

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