自立のレベル

 自立には、「肉体、経済、精神」などレベルがあると思う。そして、福祉は肉体レベル、資本主義は経済レベル、民主主義は精神レベルの自立が問われるのだと思う。

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 「自分で食べられる」「トイレに行ける」は、介護判定の基準となる。
 幼児や老人や病人は、自分で食べれて、トイレにも行ければ、「自立した状態」と言える。
 では、自分で食べれて、トイレにも行ける人だけの世界になったら、誰が食事を作り、トイレをいつでも使える状態にするのだろうか?
 支える人がいなければ行き詰るなら、「自立」が意味することはなんだろう?

 支えを必要とする人もおらず、自分で自分のことができれば、日常生活には不自由しない。
 しかし、そんな人ばかりになったら、誰がお店で物を売り、水道や電気やガスを使える状態にするのだろうか?
 仕事を持っていても他人を必要とするなら、「自立」が意味することはなんだろう?

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 職業選択の自由が保障されているので、「何を仕事にしたいか?」は自分で決められる。
 しかし、「どんな仕事が必要か?」は、必要から生まれるものなので、自分では決められない。

 必要としている役割を引き受ける方が、自分がしたいことを認めてもらうより「仕事」にしやすい。

 決して「必要とされる=簡単」ではない。
 むしろ、生活に必要な仕事の方が、最低限求められるレベルはかなり高い。
 必要だから求められているものなので、満たされないと問題が起きるから。
 医療など、「失敗=死」という厳しいものもある。
 しかし、「何のために、何をするのか?」がはっきりしているので、「する・してもらう」という関係を築きやすい。

 個々の生活があって、生活を支える仕事があって、社会全体を支えるための組織がある。
 音楽や小説などの芸術は、それらを題材にはしているけれど、含まれていない。常に外側にある。

 外側が大きくなっても、内側が充実するわけではない。
 しかし、「生活で経験すること、仕事で経験すること、社会的な出来事」を通じて、接点を持っている。

 芸術には、視点を変えたり、自分で自分を縛る不自由さから解放する役割があるのだと思う。
 渦中にいると全体が見えないので、「こうするしかない」と視野が狭くなってしまう。
 自分自身の問題なので、自由に発想することが難しくなる。
 そんな時、自分から離れて、他人を通じて問題を見ると、意外な解決策が浮かんだりするから。

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 もし、わたしだけが感じることで、他人には全く関係ないなら、伝える意味があるのだろうか?
 わたしに好意的な人なら、関係なくても興味を持ってくれるかもしれない。でも、「その人」に伝えるだけでいい。「みんな」に伝える必要はない。

 直接・間接問わず、何らかの関わりがあって、一例として提示するなら、「みんな」に伝える意味が出てくる。
 わたしについて知ってもらうわけではなく、わたしが体験した「普遍的な問題」について伝えるために語る。

 「わたしやあなたなど、個人を問題にしているわけではない」が伝わらない場合、普遍的な話にはならない。
 愚痴や不満、悪口や陰口になってしまう。

 多くの人は、「何があったのか?」を知って、「だから、どうするのか?」を決断するために意見を求める。
 ここで問われる自己は、「他人と違う自分」ではなく、「常に変わらない自分」だから、人と同じ意見でも構わない。
 「実際にするだろう内容を正直にいえる=自己開示」が問われる。

 危険を伴う決断は、やる前に「どうなるか?」を考える。
 だから、「もし、○○なら、どうするか?」と仮に問うことで、実行した場合の問題を事前に知ろうとする。
 ここで、実際にはやらない理想的な返事をされたり、人を驚かせるための意外な返事をされると、事前の検討が意味を持たなくなる。

 たとえ、あきれるほど自己中心的な返事でも、本当にそうするつもりなら、言った方がましな結果になる。
 「実際にやらないで済ますために、本当に望むことを言葉にする=自己表現」が問われる。

 好きな服や髪形で表せる個性は、その人の一面でしかない。
 そもそも、まったく関わりのない第三者が、「○○さんは、カジュアルな服が好き」と知って何の役に立つのか?
 プレゼントを選ぶわけでもなく、好かれるために服の好みを合わせるわけでもないなら、不要な情報でしかない。

 「あなたはそういうのが好きなのね。わたしはこういうのが好き」と言い合う相手は、それなりに仲がよい相手に限られると思う。

 やらないといけないことを分担するために、相手について知りたいし、自分についても伝えるなら、「できる・できない」「望む・望まない」など、実行に必要な情報に限定して話すと思う。統一する必要がないなら、好みなど、余計なことは言わないし、聞かない。

 仕事を分担するための集まりで「できない」という話をされた場合、「では、誰が代わりに引き受けるのか?」が問われる。
 「みんな自分のことで手一杯」なら、言われてもどうすることもできない。
 するとやる前に相談することは難しくなる。

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 「食べたら、寝る=生き物」からは、「肉体レベルの自立」が問われる。
 「自分で食べれる、一人でトイレに行ける=自立」となる。

 「他人のために働く=日常」からは、「経済レベルの自立」が問われる。
 ただ食べて寝るだけでは、自立しているとはいえない。
 「食べて、寝るために必要な役割を持っている=自立」となる。

 「未来のために働く=政治」からは、「精神レベルの自立」が問われる。
 仕事を持っているだけでは、自立しているとはいえない。
 「方針ややり方を決める立場にある=自立」となる。
 規模は問わない。家族でも、地域でも、国家でもいい。

 では、方針を決める活動に参加して、実際に働いてきた人が、病気で体が不自由になって働くことはできないが、話し合いには参加できる場合は?
 肉体的レベルでは自立していないが、精神レベルでは自立しているのだから、「自立している」といえると思う。
 しかし、自分でしないことに口出しすれば、新しく引き受けた人の「精神レベルの自立」を妨げることになる。

 だから、周囲が反対しているのに、いつまでも権力を持ち続けようとすれば、争いが起きる。
 しかし、周囲から「精神的な支え」として必要された場合、責任者から相談役に変わることが多い。

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 お金を中心に動く「資本主義」では、「経済的レベルでの自立=自立」として語られることが多い。
 経済レベルの自立の中でも、金銭労働が重視される。

 ところが、「福祉国家」は、「肉体レベルの自立支援」が語られる。

 食べるものがあって、寝る場所があって、死なずに済んだ。
 でも、経済レベルでの自立ができない。
 精神レベルでの自立もできない。
 そんな時、どう感じるだろうか?
 「居場所がない」「希望がない」と感じられるのではないだろうか?

 仕事の多くは、肉体労働を伴う。
 だから、肉体レベルの自立が果たせない場合、経済レベルで自立することは難しい。

 方針を決めることは、体を動かさなくてもできる。
 しかし、方針を決めるために集まる場所を整えることは、体を動かさないと難しい。

 全員が対等な関係で、机を運んだり、お茶を入れたりしている時に、一人だけ座っているのも感じが悪い。だから、やろうとする。
 しかし、他人からどう思われても気にならないなら、「手伝わないけど、要求はする」という態度をとれる。
 すると肉体レベルの自立は問われなくなる。あきらかにできないことが分かる場合も免除される。

 どうしたくもない場合、全体のために予定を決めるように求められたら、負担に感じられる。
 しかし、「自分の思い通りに動かしたい」と思っているなら、義務ではなく、権利と感じられるかもしれない。

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 わたしにとって、全体の話し合いは義務であり、権利ではない。
 たとえ体調に不安がある時でも、みんなが片づけていれば、自分も片づける。
 「できない」と言われて、聞いてくれる人ばかりではない。だから、言わずに済まそうとする。弱みは見せない。

 でも、「勝手に決まって、言われたとおりに動くだけ」になったら、「他人事」に感じないだろうか?
 「何月ごろ、何がある」程度でもいい。
 予定を知っているから、「当事者、関係者」という意識が生まれるのだと思う。
 何も知らず、問われることもなければ、「部外者、傍観者」にしか感じられないと思う。

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 自分のために稼ぎ、自分のために支度するだけなら、誰からも何も知らされないし、誰にも何も問われない。
 楽だけど、自分がいても、いなくても、変化がない。

 実際、こなしきれない用事から解放されて、体は楽になった。
 しかし、生き続けることに意味を感じられなくなってしまった。

 自分が必要とする人は、自分がいなくなっても困らない。
 しかし、自分を必要とする人は、自分がいなくなると困る。
 お互いが、お互いを必要としていれば、生き続けることに意味を感じられるようになる。

 何でも自分でできるようになって、思い通りに生きたいと思っていたころは、「姿が見えなくなると寂しいから」が生きる理由になるなんて考えもしなかった。でも、そんなことが生きる理由になったりする。

 今は、失うことが怖いから、ひとりでいたかっただけなのかもしれないとさえ思う。
 先のことは誰にも分からない。嫌いになったり、嫌われたりするかもしれない。死んでしまうかもしれない。
 そんな不安に負けないで、好きと感じる自分自身に素直になれるかどうか。
 問われるのは、そんなこと。

 生まれる前から多くの失望を繰り返して、わたしは現実に何も期待しなくなっていた。
 だから、うまくいかなくても、すぐに次の行動に移れた。
 でも、うまくいくと、いつまで続くのか不安になって自分から終わらせてしまう。
 形は変わってもずっと続くと信じることは、とても難しいことだった。

 でも、「今度は、○○しよう」と待つ楽しみがある。
 わたしが望む幸せは、そんな小さなものだった。

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 人が人といて、今から何をするか話す。
 希望を言ったり、聞いたりする。

 そんなささやかなつながりこそが、本当に守りたいものなのかもしれない。
 集団から疎外されても、仕事を失っても、体が不自由になっても残るもの。

 死を越える唯一のもの。
 それがあるから、自立しようと思えるもの。

 人と人だけじゃない。
 「もう一度店に立ちたい」という気持ちにさせるのも、「つながり」だと思う。

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 カギは、「うまくいった場面を思い浮かべられるか?」にあるような気がする。

 現実ではないから自由に想像すればいいのに、どうしても思い浮かべられない時がある。
 幸せな場面を想像して、幸せな気分に浸れないのに、現実になったらどうだろう?
 嬉しいだろうか?
 たぶん、嬉しくないだろう。

 空想して幸せになれるなら、本当に欲しいものなんだと思う。
 現実にならなくても、大切にすればいい。

 そういう「その人の感覚に由来すること」が、自立の根底にあるのだと思う。
 そこが揺らぐと、全体が安定しない。

 「2173年、日本」で、主人公が卒寮式で問われることなのだと思う。

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