価値体系の整理

 「竹林の家」は、一歩進んで三歩下がるみたいな進み具合。

 また資料集めをしないといけないかもしれない。
 とりあえず、対立構造を確認することからやり直してみよう。

 「グローバル化に対抗するのは、愛着である」から、7章は「羨望」というタイトルになる予定。

 最初は「照射」だった。
 一般的な考え方と違うから、一方的に批判するという内容にする予定だった。
 でも、それではうまく行かなかった。それまでの流れと合わない気がする。

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 改めてグローバル化について考え直してみよう。

 グローバル化は、同じものを大量に生産して、世界中で売ることで成り立っている。
 量と速さが欠かせない。だから、止まることはできないし、生産を減らすこともできなくなる。

 資本主義経済であっても、計画は立てる。
 「企画」という形で、売り手を定めて「売りきること」を計画する。

 計画して実現するためには、進行を管理する必要が出てくる。
 進行を管理するためには、状況を把握する必要が出てくる。
 状況を把握するためには、すべてを明らかにする必要が出てくる。

 この「すべてを明らかにする」という部分に問題が出てくる。
 聞く側は、「サンプルの一つ」でしかない。
 しかし、聞かれる側は、「自分自身の話」であり、簡単には変えられない。

 答えたことに対して、「どうして、それを選ぶの? こっちの方がいいのに」と言われても、困ってしまう。
 しかし、「公平で中立な第三者」という立場に立っていると、相手を問い詰めることをなんとも思わなくなる。

 知りたがっている時には、相手の苦痛に気づかない。
 問われる立場に立って初めて不快さに気づく。

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 何かを問われた時、都合の悪い真実を含めて、誰にでも、何でも言うだろうか?
 わたしは言わないし、言えない。

 問われて話すことは、話しても、話さなくてもいいことに限られてしまう。
 本当に気になっていることは、誰にでも言えない。

 「信頼しているなら、話してくれてもいい」と脅されても、言えるものではない。
 「話したい」と思えるまでの曖昧な時間があって、機会があって、やっと語られる。

 普通は言わないようなことを平気で言う人でも、その手順は変わらないと思う。
 オープンにする領域が違うだけで、秘密があること自体は誰でも変わらないと思う。

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 では、どんなことならオープンにできるだろうか?
 いつでも、どこでも、誰にでも当てはまって、誰もが共感しそうなことなら、言っても言わなくても影響がない。
 「わたしの意見」ではなく、「わたしたちの意見」として扱えるから、対立しないで済む。

 集団に個人の感覚を持ち込めば、個対個の対立が起きる。
 「感覚が違う」「価値観が違う」など、さまざまな支障が出てくる。

 参加者が「自分の感覚とは違うけれど、受け入れてもいいこと」を選択すれば、誰の希望でもないけど、誰からも文句が出ない。
 「満点とマイナスがいる状態」を避ければ、「平均的な内容」に落ち着く。

 「苦痛ではないが、面白くもない」という状態が続いた時、どう感じるか?
 わたしは退屈してしまう。嫌いなことが混ざってもいいから、面白いと思えることを選びたい。

 しかし、「いつでも、どこでも、誰にでも当てはまる」から「誰でも参加」が可能になる。
 「グローバル化」には「誰とも付き合う」という意味もある。
 というより、「誰でも参加できる」を目指した結果、「いつでも、どこでも、誰にでも通用すること」を採用して、窓口を広げた。

 環境から自然に湧きあがる感覚を排除して、人為的な選択を採用した。
 その結果、経済効率が最優先事項に変わっていった。

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 では、グローバル化するために失われた、環境から湧きあがる自然な感覚とは何なのか?
 素朴な宗教観とはどのようなものなのか?

 たとえば、小学校には暖房器具がない。日の当たる窓側と、日陰の廊下側では、温度差がある。
 授業が終わって、日の当たる窓際にみんなで駆け寄った覚えがある。
 太陽は、誰かのために暖かくしているわけではない。人の思いに関係なく、同じことを繰り返している。だから、夏になれば耐えられないほどの暑さになる。でも、その暑さがなければ育たない作物もある。

 自然が、一定のサイクルで動いているから、人々は計画して行動することができる。
 人は、気分や年齢で好みや考え方が変わってしまう。しかし、自然はいつも同じルールで動いている。
 同じ法則で動いているから、「自然科学」が成り立つ。

 言葉にするのが難しいけれど、「自分を包む大きな流れ」を感じることがある。
 村や国など、集団を包んでいるのは、「自然が持っている一定の法則=大きな流れ」なのだと思う。

 政教分離を選んだ時、環境から生まれる素朴な宗教観も否定されてしまった。
 そして、「人々を包む大きな流れ」で共感するのではなく、「人に共通すること」で共感しようとした。すると共通しない部分が余ってしまう。

 誰にでも共通するのは、生理的なことに限られてくる。
 排除されるのは、考え方や感情。

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 貧乏な時、問題になるのは生理的なこと。空腹や病気など、誰もが理解できること。
 生理的なことが満たされれば、「好きなこと」を求めるようになる。

 食べなければ死ぬという極限状態なら、なんでも食べる。
 しかし、食べたいものを選べるなら、好きなものを食べたいと思う。

 「体によいもの」でも、「体によいものを食べたい」という価値観に従っている。
 だから、「健康に良いものを食べましょう」と言われても、食べられない。
 しかし、「健康になりたい」と思っていれば、食べる。

 意に反することを強制されると、世の中的によいことであっても苦痛に感じる。

 その人のためにならなくても、「悪いこと」と言わずに、「駄目と言われても、好きなものは好きだよね。好きなものを我慢してまで長生きしたくない」と同調してくれる人の方が、一緒にいて心地よい。

 同調圧力をかけて、自分を支持してくれる人とだけ付き合っても、悪いことは悪い結果をもたらす。

 また「生理的なことは、誰にでも共通している」という暗黙の了解があるため、身体的な問題がある場合、すごく困る。
 「違う」というところまでは、受け入れられる。しかし、「だから、同じように行動できない」は受け入れられない。「努力すべき」という話になってしまう。努力では解決しないから、「違う」と言っていることが分からない。

 人が基準になった世界は、「共通範囲」に当てはまる人には心地よい。しかし、そこに入れなかった場合、居場所を失ってしまう。

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 価値観は外からは見えない。
 だから、心から好きだと思えなくても、好きであるように振る舞えば仲間に入れる。
 あるいは、自分が話題の中心になって、「真似される側」になればいい。

 では、仲間を持つことより、自分の感覚を大切にしたら?
 多人数とは結びつき辛くなる。しかし、結びついた時は、お互いに本心だから、深い結びつきが生まれる。
 「相思相愛」と呼ばれる状態になる。

 では、「相思相愛」には、誰でもなれるものだろうか?
 「自分は相手を好きだけど、相手は自分を好きではない」というすれ違いや、「一人の人が、複数から好意を持たれる」という複雑な関係ができた時、どうなるだろう?

 わたしには、「当事者になる」という感覚がほとんどなかった。
 「人を包み込む大きな流れ」に意識が向けられているため、何者かであり続けることはすごく難しかった。
 「人である」という意識が希薄で、あらゆるものと一体化してしまう。
 必然的に「一人の人として、選んだり、選ばれたりする」という発想が湧かない。

 世の中に、選んだり、選ばれたりすることがあるのは知っている。
 でも、自分が選ぶこともないし、選ばれようとすることもない。ただ眺めているだけだった。「うまくいくといいね」と応援することはあっても、「自分がその立場になりたい」と思うことはなかった。
 わたしにとって、「選ばれる=選ばれていた人と同じように振る舞わなければならない」となる。だから、「他人にはなれないし、なりたくもない」と思ってしまう。

 自我がはっきりしないと、「いつでも、どこでも、誰にでも通用する」は良いことのように思える。
 ルールと一体化してしまえば、なぜ争いになるのか理解できなくなる。

 「みんなが納得する方法」を考えて動けば、「これが駄目ならあれ」と次々に代案を考えられる。
 しかし、「これでなければならない」という愛着が動機になれば、代案ではなく、妥協案を選ぶことになる。それが、保守の意味なのだと思う。

 全体の中から最も適する人を選ぶのが「グローバル化」なら、Aさんが担当できるように工夫するのが「保守化」なのだと思う。

 移動の自由があっても、知識や技能を持っていても、「仕事」として引き受け続けることができるとは限らない。
 だから、「最適な人」を選んで最高のやり方を求めるより、「引き受けられる人」に任せた方がよいと思う。

 「収入さえあれば何でもよい」なら、少ない労働で多くの収入を得られる仕事を求めて、転職を繰り返す方がいい。
 しかし、「これがしたい」と思って選んだことは、そう簡単には変えられない。

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 では、「これがしたい」と心から思えることは、誰でも見つかるものだろうか?

 「好き」は、努力で作れるものではない。
 「気にかかる」も、努力で作れるものではない。
 出会った瞬間、そうなってしまうもの。

 好きなものを見つけても、相思相愛にはなれないかもしれない。
 無理だと分かっても諦められなかったら?
 好きでいることならできる。でも、少しでも自分に関心を向けることを求めたら、とても辛いと思う。
 それでも、愛するものが何もないよりましなのだろうか?
 なんとなく、空虚より嫉妬に身を焦がす方が、生きていることを実感できる気がする。

 でも、嫉妬することさえできず、何に対しても関心を持てなかったら?
 「いつでも、どこでも、誰にでも通用する」を選べば、虚しさは消せるだろうか?
 わたしは、ますます虚しくなると思う。

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 「竹林の家」は、日本神話を土台にしている。でも、兄神という神は、日本神話に登場しない。

 日本の神さまは、自然を擬人化したものが多い。しかし、今のわたしたちは人工的な環境で暮らしている。だから、「無意識=兄神、意識=弟神」に変えました。

 人が、人を好きになるのは、意志の力ではない。
 しかし、好きになったことで意志が生まれる。
 無意識が先で意識が後だから、夜の神は兄、昼の神は弟にしました。

 「兄神は絶大な力を持っているけれど、人の世話を必要とする弱い存在」です。なぜなら、兄神は自然そのものだからです。
 たとえば、森林は放置すると同じ系統の大木ばかりになるそうです。人が適当に伐採することで、多様な種類の「森」になる。

 太陽と水の力で、自然は、自然の法則に従って成長していく。しかし、法則に従うだけでは不都合が起きてくる。手を入れた森でなければ成長できない植物もいる。そこで、自然の一部として、森を育てる「森の人」が必要になる。

 自然法則に反することをすれば育たないから、無茶なことはできない。でも、どちらでも構わない時、環境保全を優先するか、経済効率を優先するか、が問われる。

 たとえば、「木材が不足している時に売れば儲かるけれど、幼い木ばかりになってしまうから切らない。次の木が生長するのを待つ」など、「環境優先の選択」をするためには、経済競争から離れた立場にいないと難しい。

 「保護区で生きる=自然の一部として生きる」だから、内側から自然に湧きあがる素朴な宗教観がないと難しいと思う。
 「海を守るために、森を育てる」など、壮大な世界観がなければ、仕事量の多さに嫌になってしまうと思う。

 目的は壮大でも、必要な段取りは地味で重労働。
 それでも、意義を感じて続けるためには、時間の長さを乗り越える、意志の強さがなければ難しいと思う。

 そういう人は、今も、昔も、尊敬される。
 若いころは理解されなくても、老いてから評価される。

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 最初の一人になることは、自然を相手にする田舎暮らしでも、不特定多数を相手にする企業活動でも、難しい。
 でも、目的に賛同して協力することならできる。

 そういう温度差は、避けることができない。

 教育の本で読んだような気がするけれど、「やりたいと思う人をサポートする方が、結果的にうまくいく」という話が出てきた。

 得意なことなら、「ああすれば、こうすれば」とアイデアを思いつく。
 そんなに得意でなければ、何も思いつかない。決められたことをこなすことで精一杯。

 精一杯な人に、「もっと積極的に」と言えば、過労で倒れると思う。
 やる気にあふれる人に、「やって当たり前になるからやめてください」と言えば、やる気を失うと思う。

 50しかできない人もいれば、200でも余裕な人もいる。
 そこで、「100しなければならないし、100を超えてはならない」と言い出したら、人間ではなく部品になった気がするだろう。

 どちらか一つを選んで統一しようとするから、不都合が出てくる。
 「どんな時に、どちらを使うか」を共通認識として持つことができれば、もっと生きやすくなる気がする。
 「価値体系を整理すること」が求められているような気がする。

 一応、体系化した世界が「2173年、日本」の舞台なのだけど、やればやるほど分からないことが増えていく。

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 「竹林の家」は、愛着がテーマ。
 「2173年、日本」は、選択がテーマ。
 選択の基準が愛着なので、「竹林の家」を先に書くことに決めた。二つはつながっている。

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 こちらをやってから、続きを書こう。アイデアが浮かぶかもしれない。

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