詰まっているところ

 ものすごく個人的な悩みなんだけど、それが原因で書けなくなっている気がする。自分がどうしたいのか分からないから、答えが出せない。

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 誰だか知らない状態で、偶然視線が合えば嬉しいよね。
 では、誰か知っていて、気になって集中できなくても嬉しい?

 出来事自体は、嬉しい。でも、気になって集中できないなら、行かない方がいいのかなと思う。でも、気にしている限り、行かなければ行かないで集中できないかもしれない。
 行きたくても、行かないという自己犠牲的な選択をしても、何も解決しない。

 問題は、そこでしか会えないことにある。
 もし、好きな時に会えるなら、すべきことに集中して、終わってから気にすることができる。

 では、どうしてそこでしか会えないの?
 年齢も、性別も、趣味も、共通点がない。全く接点がないから、会うことがない。

 近くに住んでいて、暮らしの中に関わってくれば、わざわざ用事を作らなくてもいい。
 「ごはんもう食べた?」と聞いて、「まだ」と返事が返れば、「おかずがあるから、持っていく?」「一緒に食べにいかない?」など、自然に同じ時間を過ごすようになる。帰るまで食べないで待つ必要もないし、断られたからといって困ることもない。自分は自分で暮らしていて、ちょっとだけ関わりを持っているだけだから、なんとなく続いていく。

 どこの誰か知らない場合、「なんとなく」はない。機会を作らなければならない。
 機会を作ろうとすれば、どうしても目的が必要になる。食事でも、遊びでもいい。何かをしようとするし、何かを話そうとする。
 食べるものも、遊び方も違う場合、どちらかが、どちらかに合わせることになる。

 もし、誘われて、合わせることができなければ、断るしかない。だから、相手ができることを選ぶ。相手の好みを知ろうとするし、相手の好みに合わせようとする。
 いくら好きでも、いつでも、なんでも合わせることはできない。しかし、相手も好きなら、自分のことを知ろうとしてくれるので、一方的な関係にはならない。

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 もし、「2173年、日本」のように、接点が舞台しかなかったら?
 話題は、舞台の話に落ち着くと思う。でも、やる側と見る側では、立場が違う。やる側は自分について、見る側は相手について話すことになる。

 今も好きだし、これからどんどん良くなると思えば、多少問題が起きても気にならない。そのうち解決するだろうと思う。「どうなるのかな?」と受け身の姿勢で待つことができる。

 でも、日常的に会うようになれば、見ていただけの時とは変わってくる。
 もし、舞台以外で知り合ったなら、「見ないし、意見も言わない」で通せたかもしれない。でも、舞台を通じて知り合った以上、見たいと思うし、見れば感想を聞きたいと思うだろう。
 いつでも、どんなことでも面白いと思えればいいけど、そうではない時も出てくる。そんな時、どうするのか?

 自分が感じたことをそのまま答えることもできる。ファンならそうする。
 世の中の尺度と比較して、意見をいうこともできる。ライバルや関係者ならそうする。
 何も言わないで、信じ続けることもできる。親ならそうする。

 どんな態度で接するとしても、「あなたのためだけにやっているわけじゃない。他のお客さんや、こちらの都合もある」「嫌ならこなければいい」と言われたら、立場の違いを痛感する。どんなに親しみを持って、自分のことのように思えても、他人事。当人が決めるべきことで、こちらが口出しできることではない。わたしが見ても、見なくても、何も変わらない。チケットが売れさえすれば困らない。買い手がわたしである必要さえない。

 実際、他人がしていることだと思って見ている時は、興味の湧いたところだけ記憶に残って、他は忘れてしまう。
 自分で自分を楽しくなるように持っていく。一つでも好きなところを見つけようとする。もし、どうしても好きなところが見つからなければ、好みに合わなかったのだと思う。なぜつまらないのか、どうすれば面白くなるかを考えたりしない。考えるとすれば、自分のため。書くことに役立てるために考える。

 違和感を感じた部分について伝えても、演じ手が意味を感じなければ、わがままで自分勝手と排除されてしまう。
 求められるのは、調子を合わせて絶賛すること。価値を肯定することが求められている。そんな風に感じたら、行きたくなくなる。

 昔は、違ったという。気を使って一生懸命見ることはしなかった。見たくなければ見ない。
 歌舞伎は、早朝から夕方まで一日中芝居をしていたのだそう。新人は、早朝に出る。まだ芸も下手で、客席では観客が食べたり眠ったりしている。そんな客を相手に、思わす手をとめて見たくなる芸をすることを目指したのだそう。
 今やれば「マナーが悪い、他のお客さんに迷惑」と客の方が非難される。

 その人自身が好きなら、目の前にいるだけで面白い。今日は機嫌がいいなあとか、何か嫌なことでもあったのかなとか、子どもを見るようにみる。しかも、子どもと違ってしつけをしなくていい。駄目なことは駄目と身体を張って止める必要がない。言葉は悪いけど、ペットをかわいがるようなものなので、とても癒される。

 わたしは、切磋琢磨するより、同調して一体感を味わう方が好き。
 優劣を競って自己証明したいと思うのは、男の子だけだと思う。そういう男の子の価値観に同調しただけで、自分自身が存在を証明したいと感じているわけではない。わたしは、わたしがよければそれでいい。好きなら、世間的にどうかはどうでもいい。

 好きなものが褒められると嬉しいから、何かしたいと思う。世の中とか、顔の見えない相手に向かって働きかけたいとは思わない。すると、世の中に出て勝負しないのは、負けることを恐れて逃げているからだと非難される。
 最初は、そうなのかもしれないと思う。でも、自分がしたいことでも、他人がしていることでも、好きなことのために時間を使いたいだけで、何もしてないわけではない。

 わたしは、困っているようなら「どうしたの?」と聞く。でも、他人のために尽くせば、自分が世間と勝負することから逃げたと非難される。だから、聞かない。何をしているのか気にかけることもしない。自分がしたいことに集中する。そうすることが、世間と勝負することなら、なんてつまらない生き方なんだろうと思う。
 逃げたと思うならそれでもいい。わたしはそんな生き方はしたくない。負けたくないから意地でもやるなんて、手に入れても何も残らない気がする。争ったことで身についた技術もあるかもしれない。でも、心の中には、怒りや憎しみしか残らなかった。だから、もっと前向きな気持ちで技術を身につける方法だって、あるのではないかと思う。

 今書いている小説も、調べていることも、このブログも、全部わたしが面白いと思ったから始めたこと。自分が見たいものや、小さいころに困ったから、子ども時代の自分の代わりに、同じ年齢の子どもたちに伝えたいこと。すごく個人的な理由で選んでいる。だから、世間的に意義があるかは分からない。

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 子どものころから見ているから、知っている人のような気がする。褒められれば自分のことのように嬉しいし、もっとよくなってほしいと思う。よくなると思えるから、安心していられる。

 見守るのは嫌ではない。でも、よくなるように考えても、何ができるといわけではない。ただ見ているだけでも、あれこれ気をもんでも、結果は変わらない。考えれば考えるほど、他人事であり、他人なのだと意識する。だから、たまに舞台で見るくらいがちょうどいいのだと思う。

 「何しているのかな?」と気にかける相手がいるというのは、それだけで救われる気がする。
 だから、関係者になったり、個人的に付き合ったり、身近な存在になることを求めない。

 長い間、好きとか、嫌いだけなら感想だけど、理由まで言ったら意見になると知らなかった。だから、なぜ言い争いになってしまうのか、不思議でならなかった。
 言い返されれば、言い負かしたいと思ってしまう。優劣を競うより、同調して一体化する方が好きなのに、なぜか嫌いな方に進んでしまう。何をやめればいいのか分かったら、言い争いは避けられるようになった。
 でも、一度考えてしまえば、続きが知りたいと思う。どちらが正しいかを争って前に進まなくなるのは嫌だけど、理由を知ろうとすることは好き。意見の対立は気にならない。むしろ楽しいと感じる。

 「問題点を追求しながら、何でも受け入れて肯定する」は、できるはずない。何でも受け入れないで、細かく一つ一つの状態を見ていくから、因果関係が見えてくる。
 「よいものを作るために、自分ができることはする」は嫌ではないけど、仲間だと信じられないと不安になる。他人事であり、他人なのだと意識すれば、余計なお世話ではないかと思えてくる。

 伝えたいなら、余計なお世話かもしれないけど言いながら、しゃべり続けることもできる。
 でも、邪険にしても受け入れて心配し続けることが愛情の証なのだと求められたら、救われない。本当に嫌がっているのかもしれないし、否定されるだけで何も残らない。
 元気な時は耐えられたけれど、あきらめなければいけないことが増えると、続ける意義を感じなくなる。そして、一番最初にやめた。

 友だちの話を聞くのは、友だちだから。聞くだけではなく、話すこともする。
 誰の話も聞くのは、かつては、自活しないで布施に頼る聖職者の役割だった。実力を認められて出世することとは対極にある。堅実さや安定を求めたらできない。野心を持ってもできない。でもわたしは、みんなに心を開きたいわけではない。何がしたいのだろう? 一人でいたいの? それとも、誰かといたいの?
 見守るだけを、誰かにカウントしていいの?
 それは、「誰か」とは違う気がする。

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 「竹林の家」は、神と一体化することを自ら選んだ話。その選択は、相手が神だからできるのだと思う。人と人では不可能な選択。

 「2173年、日本」は、少女が将来を決断する話。ドラマ的には、他の保護区へ行くという最初の希望を捨てて、自由区を選んだ方が変化が大きくなって、盛り上げやすい。でも、通り過ぎていくだけなら、影響は受けても、選択まで変えない気がする。
 変えるなら、変えたくなる何かがないと駄目なんだろうな。それは何だろう?

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