主題と予定

 小説「2173年、日本」用のメモです。

 たぶん、「最初に会った他人」だからショックを受けて、「誰」がキーワードになるのだと思う。
 「自分ではない」と思って初めて、恋や友情が始まる。
 だから、最初に「自立」がキーワードになる。そして、卒寮式が舞台になる。

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 「自立していない状態」では、自他は区別されない。
 親の考えや生活習慣に支配されている。

 子どもが「○○買って~」と言えば、親が「誕生日まで待ちなさい」などと判断する。
 働き始めて、自分でお金を管理するようになれば、判断されることはない。

 大人になっても、組織に所属すれば、目標を決めることはできない。
 しかし、「どうやるか?」「誰に任せるか?」は、役職が上がるほど、選択できるようになる。
 自分の考えを取り入れられる分だけ、結果責任が問われる。

 成長の途中で、自由に選べば、結果責任が問われることに気づく。
 すると、いつまでも子どもでいたくなる。
 自分で考えて決めるより、文句をいうだけの方が楽だから、自由を求めなくなる。
 しかし、文句を言うだけで、何もしなければ、誰からも相手にされないと気づいて、責任を持つようになる。

 能力があって、遂行する意志もあれば、実現が期待できる。
 自立した世界では、「誰」がキーワードになる。

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 「誰」という「顔のある世界」の対極にあるのが、区別のない平等な世界。

 小さいころは、「ブランコは、順番ね」と教えられる。
 順番を守らないのは悪い子だから、「横入りはいけないんだからね!」と非難して相手が嫌な気分になっても、自分が罪悪感を感じる必要はない。完全にいい子でいられる。

 では、「あの子が好きだから、自分の代わりにあの子にやらせてあげよう」と交代したら?
 自分はやめて、あの子が入ったのだから、後ろで待っている人の順番は変わらない。「横入り」とは違うから、文句を言われる理由はない。
 わたしなら、ほほえましいと思う。でも、「譲ってもらえない子がかわいいそう」という意見が出るかもしれない。白黒をつけるのは難しい。

 でももし、「力の強い子が、力の弱い子に、譲らせる」が起きたら?
 わたしなら、かわいそうだと思う。でも、逆らえばいいという意見も出るかもしれない。よくないことという認識は共通していても、「だから、どうする?」で対応が分かれる。

 自力で解決を求めれば、争いが起きる。
 争いを避けるために、ルールで解決しようとすれば、「譲るのは禁止」となる。
 すると、「好きだから譲る」も、悪いことに変わってしまう。
 暴力を避けるためには必要なルールかもしれない。でも、好きだから譲るを罰する必要があるだろうか?
 それを罰するのは意味がないと思う。しかし、身を守るためには必要なルール。だから、ルールを運営する人間が、「無理強いされる子」はルールを盾にやめさせて、「好きな子にだけ譲る」は冷やかすくらいでやめることまで求めないなど、対応に差をつけることで対処する。

 では、「好きな子だけに譲るは認められているのに、誰も自分に譲ってくれない。譲られた子がうらやましい。だから、譲るのは禁止というルールを盾に、やめさせてしまおう」と考えたら?
 「譲るのは禁止」に、「○○は可、△△は不可」など条件を付け加えるべきだろうか?
 わたしなら、ルールを改定するより、嫉妬に身を任せて行動することをやめる方がいいと思う。

 嫉妬に任せて行動することを、「心の闇」などと呼ぶ。
 「譲っちゃいけないんだからね!」とやめさせたところで、自分のことを好きになってくれるわけではない。順番を譲る以外の方法で、好意を示すことになるだけ。分かっていもやめることができない。
 成功しても、失敗しても、悔しさしか残らない。抜け出したくても抜け出せない。そうなってしまったら、他人に頼るしかないのかもしれない。とめてくれる何か、誰かが必要になる。

 負の感情に気づかず、「好き・嫌いに関係なく、誰でも同じように対応しなければならない」と主張することで、「特別扱いを認めて、自分以外に関心が集まること」を阻んだなら、それは究極の嫉妬では?
 嫉妬していることにすら気づかない嫉妬は、根が深く、断ち難い。

 わたしは、誰かが自分に譲ってくれるとは思えなかった。だから、何でも自分でできるようになろうとした。嫉妬すらしなかった。だから、自分が精神的に追い詰められていることになかなか気づかない。知らない間に身体が蝕まれていく。神経系に異常が起きやすくなる。
 それでいて、「親切にするのはよいこと」と思っているから、特別好きでなくても譲る。
 好きだから譲るはストレスにならない。しかし、よいことだから譲るは、自分を殺すことになるので辛い。だから、「よい子でなくてもいい」と拒む。生活圏が狭い間はいいけど、広くなるとそれでは解決しなくなる。
 何かがおかしいと思うけれど、何なのか分からない。

 もし、「ストレス社会」のストレスは、「嫉妬に気づかず、ルールを盾にすること」が原因なら?
 「嫉妬するのは悪い子です」と「よい子のルール」に追加しても、解決はしない。悪いことも、意味がないことも分かっていて、どうすることもできないで、感情に振り回されてしまうのだから。
 どうにもならないのに、どうにかしようとして、無力感に陥ると思う。

 何が気になるのか?
 どうなってほしいのか?
 どうなることを恐れているのか?
 自分が感じていることを見つめて、不安の正体をつかまない限り、ずっと感情に振り回され続ける。
 不幸で共感することしかできなくなる。意味がないと分かっていも、「同じだけ不幸になれ」と思ってしまう。

 親しくなると、心の底に眠っていた怒りや憎しみが顔を出す。普段のわたしとは違うから、相手は驚く。そんな態度はよくないと批判されたり、見なかったことにされたりする。
 すると、一旦縮まった距離が、永遠に開いてしまう。一人でいるより一人だと感じる。そして、言わなくなる。
 一旦は、それで落ち着く。しかし、問題が起きると、相手の前ではルールに従って振る舞うから、自分の本心と向き合うことができない。苦しくなって、自分自身を守るために、関係を断ってしまう。
 そんなことの繰り返しで、誰とでも話すし、聞くけど、続かない。

 どこでも、誰でも、同じ結果にしかならない。だから、一人の方がいいと思う。
 その一方で、人と付き合わなければいけないという、社会的な価値観に左右される。
 二つの間で葛藤が起きる。

 今は、どちらも間違いだと思う。
 でも、そういう悩みは、誰もが感じることなのだと思う。
 具体的に、誰に何を思ったのかが語られるわけではないから、気づかないだけなんだと思う。
 むしろ、はっきり言ったわたしの方が、思いっきりがいいのかもしれない。

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 「2173年、日本」は、「自立」という問題を分かりやすくするために、特殊な未来を設定しました。

 音楽家は、櫻井さんがモデルです。
 自立がテーマなのに、なぜ櫻井さんなのか?
 「全く同じに思えない自分」を意識することで、自分の考えが生まれたから。

 実際に、わたしが初めて聞いたのも中3でした。小説の少女と同じ年齢だった。「TABOO」の発売前くらいです。

 「TABOO」の中で状況がイメージできたのは、「ANGELIC CONVERSATION」だけでした。「遠いところへ行くんだな」と思った。ちょうど進学があったから、共感しやすかったのだと思う。
 他は、「大人になったら分かるんだ」と思ったきり、分かるようにはならなかった。「恋愛って、あんまり楽しくないのかも」と思ったような記憶がある。

 それから聞くようになって、恋愛以外でも、「ええ~、わたしはそんなの絶対いやだ」と思う内容が結構あった。だから、わたしにとって最初に出会った他人なのだと思う。それをすると嫌いになるというわけでも、やめてほしいわけでもなく、「わたしがするのは嫌」という意味なんだけど、望んでいることが分からなければ、違いを知ることはないから、出会えそうで、なかなか出会えない。望まないことは思いつかないから、自分で考えつくことはない。だから、他人と出会うことが必要になる。

 思想や思考ではなく、生理的なことだから、話しあって変わるようなものではない。個人的な関わりを持たなければ問われることはないし、隠しておくようなこと。とても生々しくて、善も悪もなく、矛盾したり、混乱している部分。
 だから、意識がある時は言わないけど、衝撃が大きいと無意識に言ってたりする。

 一度「わたしは思う」が始まると、「そうするのが普通」という世界に違和感を感じるようになる。いわゆる、反抗期が始まる。
 自他の区別が起きて、この子とは気が合うとか、あの子が好きだとか、友情や愛情が始まる。
 だから、きまりを理解して、うまくやって褒められることを期待する間は、子どもらしくみえる。

 わたしは、「みんなもすべき」という同質な世界と、「これが好き、あれは嫌い」という自立した世界を行ったり来たりしていた気がする。
 自分が元気で、一つの尺度のなかで、よりよくなることを目指している間は、忘れている。
 行き詰った時、好き嫌いを決めないといけない時は、思い出す。それは嫌だなと思ったり、そういうものなのかもしれないと考えなおしたり、自分自身に戻って考える。

 もし、ルールを守ることとルールを利用することは違うと子どものころに言えたなら、同質な世界に戻ることなく、自立した世界に留まって、自然に自分の考えを口にするようになったのかもしれない。

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 最近、「割り切れないもの」が闇を司る兄神、「ルール化したもの」が光を司る弟神として、短い創造神話を書きました。「竹林の家」という短編小説の第一章で、初の自費出版になる予定です。
 ブログに書いたら、「書いたんだから」と取り組むかもしれない。だから、書いておきましょう。
 2011年の12月末までに本にします。

 「竹林の家」も、兄神のモデルは、櫻井さんです。
 わたしは、モデルなしでは書けません。でも、モデルにできるほど具体的なイメージを持っている人はそうそういません。そして毎回、櫻井さんをベースに、他の要素を加える形に落ち着く。
 これはするかも、これはしないかも、などと想像しながら書くのは楽しい。

 今回は神だから、姿もなければ、言葉もしゃべらない。それでも、切り分けることができない、さまざまなものを抱え込んだ感じが残れば、らしさは出せると思う。
 自分は神だから不死なんだけど、人の死を悲しんだりする。昼の間に死んでしまうのではないかと心配したり、強いのか、弱いのか分からない。一神教の神をモデルにした弟神とは対象的。多面的で、切り分けることができないものを抱え込んだ複雑な神さまです。

 初回限定DVDのインタビューでも、そんな話が出ていました。
 光があったって一つに決まるのが昼の神なら、闇の中で矛盾するものが溶け合うのが夜の神。そういうところが残っていれば、いろいろ変わっても、「そんな気分の時もあるのかもね」と違和感なく受け入れられる。
 だから、「一つの論理を全体に適応して、是非を論じる弁護士」が一番遠いと感じる。わたしには書けません。

 そうえいば、「2173年、日本」の舞台は卒寮式だから、記念に一曲演奏するのだけど、何が合うだろう?
 「RAZZLE DAZZLE」から選ぶなら、「Solaris」か「BOLERO」かな。
 でも、「自由区はこんなところ、こっちにおいで」という勧誘を兼ねて選ぶなら、「Django!!! -眩惑のジャンゴ-」が一番自由区らしい。
 勧誘するなら、入寮式の方がいいかもしれない。保護区から出て来たばかりで見たら、価値観変わると思わない?
 興味を持つか、絶対無理だと思うか、二極化しそう。
 もし、入寮式で「RAZZLE DAZZLE」が流れたら、喧嘩売られている気がしない?
 わたしのことだから、売られた喧嘩は買っちゃうんだろうな。はっきり意識しなくても、奥の方に疑問が生まれて、大きく育っていく気がする。
 「狂気のデッドヒート」も自由区らしいけれど、12歳相手にちょっとねえ。

 同時にはできないから、「竹林の家」を完成させて、次に「2173年、日本」にしましょう。
 「2173年、日本」は、2013年くらいに作れたらいいなあ。苦手な回想形式だから、もうちょっとかかるかもしれない。

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