見る特権

 思い浮かんだことを書きとめただけなので、まとまりはありません。

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 「目的を達成するためなら、暴力も仕方がない」を「ゲバルト」というそう。

 ゲバルトは、敵だけで終わらない。味方にも向かう。
 味方に向かったものを「内ゲバ」という。

 「Aに反対である」で意見が一致しても、「だから、Bをすすめる」で一致するとは限らない。
 Cをすすめる人、Dをすすめる人、BならAの方がましと思いなおす人など、いろいろ出てくる。
 そして、内ゲバが起きる。

 他人に干渉せず、自分のことを自分で決めるだけなら、内ゲバは起こらない。
 しかし、全体で一つの意見を採用すれば、正しさを争うことになる。

 しかし、習慣化してない場合、正しいことは曖昧。
 だから、自分の考えに反するものを攻撃して、影響のないものは放置される。
 「違う=攻撃」というわけではない。
 「不利益=攻撃」だから、「利益になる」と認められれば、自由裁量を得られるかもしれない。

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 では、優劣がついて、一つの価値観が採用され、習慣化した場合、どうなるだろう?

  ○○しなくてはならない。
  ○○してはならない。

 そういう決まりは、自分の考えと異なる時、問題になる。

  やりたくないのに、やらなくてはならない。
  やりたいのに、やらせてもらえない。

 だから、不満を持つ。

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 もし、「したいこと=しなければならないこと」で、「したくないこと=してはならないこと」なら、決まりがあることで安心していられる。

 何をしてもよい場合、「あれか、これか」を考えて、結論を出す必要が出てくる。
 「これ」と決まっていて、他に希望がないなら、悩みから解放される。
 迷わず「これ」を極める方向へ進める。細部の工夫が始まる。

 理想的な管理は、決まりの存在を感じさせない。
 すべき・せざるべきで悩まない。
 だから、続けることができる。

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 では、問題が起きた時は、どうなるだろう?

 よく福祉で問題が起きると、「本当に困っている人を助けるべき」というコメントを聞く。
 しかし、これを実現するためには、困っていることを明らかにしなければならない。

 「できない、分からない、うまくやれない」があって、混乱した現実が生まれる。
 「最高は無理なので、最善を求める」は、「混乱している」とは言わない。むしろ、最高の瞬間は滅多にない。「妥協しても、希望を失わずに求め続ける」を繰り返して、最高の瞬間を経験することの方が多いと思う。

 では、問題が起きている時は、どんな状態になっているだろう?
 行き詰って、不正や害意を持った時、「助けを求める=罪を白状する」という可能性はないだろうか?

  困った状況にならなければ、助けてくれない。
  しかし、困った状況に陥って罪を犯せば、罰が与えられる。
  だから、すべてを明らかにして、助けを求めることはできない。
  隠し通して、自力で解決しなければならない。
  でも、どうすることもできない。
  問題は、どんどん大きくなっていく。

 もし、「犯罪を犯して言えなくなっている人=本当に困っている人」なら、どう対処すればいいのだろう?

 苦しい状況が続くのは、誰にでも起きる。

  踏みとどまり、自力で解決することができれば、干渉する必要はない。
  押し流されて、問題が問題を呼び始めれば、介入が求められる。

 知りたいのは、判断基準や一般論ではない。

  この問題はどうなのか?
  この人はどうなのか?

 求められるのは、実在する事や人や物に対する判断。

  それまでの行いから、「あの人なら大丈夫」と介入しない。
  信頼を裏切りたくないから、「大丈夫」と隠す。

 そんな問題も起きるかもしれない。

  信じるか。
  疑うか。

 ゲバルトは、支配者を疑って反対することで起きる。
 その結果、どうしても内ゲバが起きてしまうなら?

 問題は、「信じる・信じない」ではなく、「解決しなければ、悪化することがある」という状況なのかもしれない。

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 何事もなければ、DVD「つみきのいえ」のような幸せな世界になる。
 問題があれば、膨張した問題に飲みこまれていく。

 いや、DVD「つみきのいえ」でも、問題は起きている。
 「水かさが増して、建て増しが必要」という状況に対して、多くの村人は引っ越しを選んだ。
 しかし、おじいさんは、おばあさんと暮らした家で生きることを選んだ。

 もし、「独り暮らしで、万が一があったら危ないから」と家族が反対したら?
 もし、「家族なのだから、ここで暮らすべき」と娘が出ていくことに反対したら?
 どちらの場合も、ほのぼのとした内容にはならなかったと思う。

 おじいさんに、レンガを積む体力がなくなったら、どうなるのだろう?
 わたしがおじいさんなら、新しい環境に飛び込むより、思い出の中で死にたい。誰にも看取られなくても、好きな場所から離れたくない。体力を維持するために寝ていることが多いと、「一年、二年、長く生きたからって、なんだとういうのだろう?」と思える。

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 しかし、問題を未然に防ぐためには、疑うべきなのかもしれない。
 批判精神を持つことが大切だという。
 でも、客観的に判断したら、「つみきのいえ」のような幸せは得られないと思う。微妙な状況だから。

 「放置できない状況」があって、「しかし、解決できる人がいない」という問題に直面して悲劇が起きるなら、「信じる・疑う」が問題ではない気がする。

 解決するためには、批判能力が必要かもしれない。
 しかし、批判するためには、知らなければならない。
 正解を導きだすためには、正しい理解が欠かせない。

 実は、批判することより、正しく理解することの方が難しい。
 先入観や好みで、無意識に判断した場合、偏りが生まれる。
 その偏りを、批判によって正すことは難しいと思う。
 批判をやめることでしか、やり直せないと思う。

 嫌って疑えば、知りたいことだけ知ろうとする。
 しかし、好きになると、何でも知ろうとする。
 意味があっても、なくてもいい。
 既に知っていることでも、面白い。
 必要でも、無駄でも、興味を持つ。

 好きになって知って、嫌いになって判断力がつく。
 そんなイメージが、浮かんでくる。

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 管理は、全体を把握して、計画することで成り立つ。
 管理下では、言わないことは集団の問題に変わる。
 だから、管理されれば、秘密は持てない。

 習慣に支えられた暮らしも、秘密がない。
 自分で考えて、判断する必要がない。
 自立や自律が求められない。

 対立している場合、他人は信用できないので、自分がしていることを隠す。
 知ることは、支配につながる。
 正体が分かれば、弱味を握られてしまう。
 だから、隠す。

 昔は、見る側は強く、見られる側は弱かった。
 たとえば、「身分の高い相手の前に出たら、許されるまで顔を上げることができない」などがあった。
 「貴人は、御簾越し」で、正体を知らないことも多かった。

 今は、見られる側が強く、見るものが弱い。
 たとえば、優秀な人ほど世間に知られている。良くも、悪くもなければ、親しい人しか知らない。

 「知られている=影響力を持っている=価値が高い」が肯定されれば、「誰からも見られず、誰にも気にかけられない=価値が低い」という考え方を生みだす。
 影響力を持つことを望むほど、注目されないことは苦痛になる。
 注目されなくても、自分がしたいことができれば満足なら、注目されるのは面倒だと思う。

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 昔の権力者は、姿を隠して、一方的に見ることができた。
 今の権力者は、姿を現して、注目を集める必要がある。
 しかし、見られて、どんな人か知られることは、支配される可能性が高い。当然、ありのままを見せずに、演出した姿を見せることになる。役柄を演じる必要性が出てくる。

 昔の権力者が持っていた「一方的な観察」が、今は弱い立場にある人の手にある。

  見ることは、誰にでも許されている。
  見たことを、話すことも許されている。

 だからもし、「見ることは力になる」と知っていれば、情報を活用して相手を脅かすこともできる。
 しかし、「注目を集めること」ができなければ、影響力を持つことはできない。
 他人を攻撃して足を引っ張ることはできても、問題を解決して何かを生み出すことは難しいと思う。

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 影響力を持つためには、ありのままの自分ではなく、望む姿を演出して見せなければならない。
 演出された姿を見てくれなければ、思い通りの影響力を持つことは難しい。
 だから、関心を集めようとする。
 演出を理解せず、見たいように見る人間を非難する。

 影響力を保つために必要なのは、注目され続けること。

  見て、いろいろなことを感じました。
  だから、自分に合うように工夫しました。

 これをされると、注目され続けることが難しくなる。
 なぜなら、自分に合ったように工夫するほど、お互いの暮らしが異なり、関わりが薄まるから。

 「一緒にいると落ち着くから」とは、動機が根本的に違う。
 「有意義だから見る」は、生活の違いに左右される。
 集団で一つの目標を共有する場合も、同じ問題が起きると思う。そして、内ゲバが始まる。

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 自分の状況を把握して、各自工夫した場合、違う暮らしが当たり前になる。
 立場が違う以上、相手のやり方の影響を受ける。だから、話すことも、聞くことも、相手を選ぶようになる。受け入れたくない相手には話さないし、聞かない。
 誰にでも通用する「衣食住」も、暮らしが違えば問題が変わる。だから、近い人同士で集まるようになる。

 ところが、管理下にある場合、「所属している・していない」で自動的に決まってしまう。
 「情報を提供する義務」があるため、誰に対しても答えるし、誰の話も聞くことが求められる。
 「公共性が高いから」という理由で、秘密を暴くことが正当化されてしまう。

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 身分がなくなって、「見る」という特権も解放された。
 しかし、見ても状況が分かるとは限らない。
 また、姿を隠せなくなったことで、役柄を演じて身を守る必要も出て来た。
 見ることが制限されていたころより、秘密が増えたような気がする。

 同じことの繰り返しなので、特別話すことはない。
 他に気になることがないから、興味を持って相手の話を聞くことができる。
 そういう対応は、家の中で暮らしているからできるのだと思う。
 もし、他に合わせなければならないことがあったら、他人の話を自分のことのように聞くのは難しいと思う。自分の問題に取り組みたい気持ちが湧いてきて、相手の話に集中できないと思う。

 専業主婦になって、社会的な役割を持たず、相手の話に応じるだけになった時、自分が軽くなったような気がした。自分の人生というものは終わったのだと思えた。思うように動けなかったので、思い通りに家の中を整えられなかったことも大きい。しかし、それだけではない気がする。
 なぜなら、仕事といっても、アルバイト程度で大したことはしていなかったから。

 何が違うのだろう?
 たぶん、わたしは家のことだけしていると、周囲の要求を気にし過ぎて神経質になるからだと思う。
 書くことで、自分だけの世界を持てる。無心になることで、バランスを保っているような気がする。

 では、書くことだけして、誰にも、何にも関心を持たずにいられるのか?
 たぶん、無理だと思う。主張したいことがないので、うまく書けない。
 でも、好きなものを表現しようとしたら、書けるようになった。
 わたしは、好きなものを形にして残したいだけで、注目されたいわけではないのかもしれない。

 それでいいのか分からないけれど、好きなものの方が「いい・悪い」という直感が働きやすい気がする。
 何をすればいいのか、何がしたいのか、浮かんでくる。
 だから、このまま続けてみようと思う。

 兄神さまは、とても気に入っている。
 でも、人じゃないから、表現が難しい。
 手掛かりを探しているところ。

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