最近の出来事

 先日届いた会報の更新グッズは、すぐに開いたからイラストに気づいた。

 ちょうど吸血鬼と狼男の出てくる洋画を見ていたので、思わず噴き出してしまった。
 満月で変身するところを想像してしまったから。

 会報の内容は、アルバムの告知かなと思って開いたら、ツアーの告知でびっくり。

 「来年、ツアーがはじまったら、奈良と鎌倉に行きたいな」と下調べしていた。
 「今年!!」と慌てて、具体的なスケジュールを考え始める。
 奈良から吉野に回って、横須賀から鎌倉に行きたいな。金山も入れて3か所になりそう。

 いつも名古屋だけにしようと思いつつ、本で読んだ場所に行きたくなって遠出の計画を立てている。
 行けるかどうかまだ分からないけど、行けるといいなあ。
 概要はできたから、詳細はガイドブックを借りて立てましょう。

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 以下、調べたことのまとめです。

 ヒンドゥー教は、インドの民族宗教。日本なら、神道のようなもの。
 でもわたしは、神道を信仰していると考えたことはなかった。なぜだろう?

 わたしの神道のイメージは、神社と初詣と、敗戦の時の人間宣言。
 神道では、「人は、神の一部であり、誰でも(外国人でも)神の子である」と考えていることは知らなかった。
 天皇だけが神で、人であると宣言したのだと思っていた。

 どの本を読んでも、
  日本の神は、伝説ではなく、今も生きている。
  もし、神社に神がいないとしたら、祈りを捧げても虚しい。
 という意味のことが出てくる。

 わたしは、「え、神様生きているの!」と驚いてしまった。
 神社で参拝したことはある。
 わたしは神の存在を信じて祈っていたのだろうか?
 ただ「神社ではこうするもの」と従っていただけなのだろうか?

 わたしは、人の姿をした神が実在しているとは、信じていなかった。
 でも、神の元となった、自然は至る所にある。
 自然が、決まったことを繰り返しているから、日々安心して暮らせる。
 太陽は、「疲れたから、今日は休む」とは言わない。
 風は、秩序に従い、吹くべき時に吹く。
 だから、人は未来を予想することができる。安心や安全を得る方法を探すことができる。人の暮らしを楽にした科学も、秩序なしには成り立たない。

 つまりわたしは、「天体の運行や、水や空気の働きが、秩序を持って続けられること」を信じていたといえる。
 だから、神社で参拝した時、「こんにちは。いつもありがとう。これからもよろしくお願いします」を丁寧な口調で言うだけで、何も願わないのだと思う。
 願掛けなら、お寺でする。自分がしたいことを言葉にして、人の力ではどうにもできない出来事から守ってくれるように話しかけてくる。

 神仏は、誰にとっても神仏なので、不公平な願いは叶えられない。
 しかし、問題を未然に防いだり、避けられないなら軽くしたりしてくれると信じている。
 そういう感覚は、すごく日本人的なものらしい。神を身近に感じているから。

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 たとえば、一枚の紙があったとする。
 日々生成され、広がっていて、端というものがない。
 そんな巨大な紙が、何層にも重なりあっている世界がある。

 そんな巨大な紙の一部を選んで、○を一つ書く。
 すると線の内と外ができる。

 「紙自体」と「神に描かれた絵」は、同時に意識することができない。
 神道などの民族宗教は、「○の内も外も、紙の一部である」と考え、紙自体に目を向ける。
 一神教は、「絵の善し悪し」に目を向ける。

 絵の世界は、悲しみで満ちている。描かれた場所や大きさ、形を比べて争うから、勝ち負けが生まれる。
 争いの果てに、点滅するように勝者がうまれる。波が立つように、絶えまなく敗者が生まれる。だからイエスも、ブッダも、自ら苦しむことで、悲しみを分かち合おうとした。

 わたしは、悲しいとは感じない。
 でも世の中は、悲しむことを求めてくる。
 だから、悲しめないことに罪悪感を感じてしまう。

 社会から差別され、苦しむ人々がいる。
 苦しみを知れば、可哀そうだと思う。状況を知れば、自分が同じ立場だったら、自力では解決できなくて、ただ嘆くしかないだろうと思う。でも、悲しみで共感する世界は、わたしの感覚とは違っている。

 わたしは、楽しいこと、美しいものが好き。
 でも、悲しみや苦しみに背を向けて、楽しんではいけないのだろうか?
 自分が苦しい立場にあるわけではないのに、他人に遠慮して深刻であるべきなのだろうか?
 もちろん、一人なら、誰にも気兼ねなく楽しい気分でいればいい。でも、公共の場では、辛い人に合わせることが求められる。あるいは、無理をしてでも陽気に振る舞うことが要求される。

 わたしは、常に悲しみに目を向けて楽しまないことも、無理して陽気に振る舞うことも、嫌だと思う。
 でも、どうしたいのだろうか?

 自分が辛い時、同じように苦しむ人びとを見て、「わたし一人ではない」と安心しただろうか?
 いいえ、できなかった。同じ立場の人に目を向けて、仲間を作るように言われたけれど、一人でなくなっても辛いものは辛い。むしろ、世の中には嫌なことしかないような気がして、憂鬱になる。
 美しいもの、愛しいものを見て、それまで気になって心から離れなかったことを忘れることができた時、安心した。

 感嘆の対象は、人の時もあれば、自然の時もある。
 「○○するしかない」「○○すべきだ」と視野が狭くなって行き詰ってしまった時、何かに心を奪われて、一旦問題から離れることで、違う見方ができるようになる。「○○はできないけど、△△ならできるかもしれない」と考え直す余裕ができるから、安心する。
 感心した対象が、問題を解決してくれるわけではない。執着を解くきっかけを与えてくれるだけ。取り組むのは、あくまでわたし自身。

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 絵を重視せず、「紙の一部を与えられた」と受け止めれば、清く保つことが大切になる。
 人と人は、境界線で隔てられている。しかし、同じ紙の上にあって、つながっている。だから、自他を区別しない。

 「誰が、なぜ、紙に絵を書いたのか?」を問い、「神が、自らの意志で書いた」と答えれば、天地創造の物語が生まれる。

 どちらかが正しいわけではなく、どちらの世界も求められる。
 しかし、たいていは片方が得意で、片方は苦手なことが多い。

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 神道は、明るくて、大らかな世界を持っている。
 憎しみや恨みを抱かず、日々健やかに暮らせば、分霊として宇宙生成に参与できる。

 絵に注目して悲しみで共感するより、紙そのものを感じて生きる方が、わたしは好き。
 そもそも、わたしには絵が見えていないらしい。損得、善悪をあまり感じない。

 自分の内にも外にも神は宿っているのに、母親の姿が見えなくて泣き叫ぶ子どものように悲しむのは好ましくない。
 限定され、具体的な姿を持たなければできないことをするため人になったのだから、無暗に神通力を求めるのはよくない。諸芸に励むだけで十分だと思う。
 与えられた領域に目を向けず、何もしないことも好ましくない。
 反対に、美しく作り上げたからといって、与えられた領域を手放すことを拒むのも好ましくない。存在したこと自体に意味があるので、形が残らなくても大丈夫。紙は、幾重にも重ねられる。下の紙に書かれた絵は、隠れて見えなくなるけど、なくなることはない。
 死や病は罰ではないから、努力不足を嘆く必要はない。役目を終えて、衰退しているだけなのだと思う。あるいは、衰退しなければ分からないことを経験している。

 わたしが感じている神道の世界は、そんな感じ。
 そういう感覚を生みだした、日本の古い自然が残る場所へ行ってみたい。
 吉野では、山の連なりが見たい。鎌倉では、海が見たい。横須賀の猿島もいいなあ。
 歩けないから、電車から見るだけなんだけど、行けるといいなあ。

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