解けない疑問

 家には、違う役割を持った部屋がある。

 トイレで食事をする人はいない。
 玄関で用を足す人もいない。
 それぞれ向いたように作られていて、経験から「何の部屋なのか」が分かる。
 説明されなくても、便器があればトイレだと思う。

 家は、人が住むために作ったものだから、人に分かるように作られている。
 赤子は分からないとしても、大人なら習慣から用途が分かる。
 異国に行くと形が変わるので、すぐには分からない。
 しかし、肉体を持つ存在である以上、生理に関わる部分は似通ってくる。
 だから、求めるものを得ることができる。

 虫の世界、神の世界にも、部屋のような意味を持つ形があるのではないかと思う。
 だから、名前や見た目で運が変わることは、あっても不思議ではないと思う。

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 もし、どの部屋になるか選ぶことができるなら、トイレは嫌だなと思う。
 床の間のある客間など、ハレの場になりたいと思う。
 でも、トイレは必要だし、ないと困る。

 ハレの場になりたいことと、トイレが必要なことは、相反する。
 「ハレの場を目指すことを向上心、生理を受け持つことを義務」と呼んだ場合、解けない疑問が生まれる。

 もし、全員がハレの場になれるなら、「ケであるのは努力が足りないから」といえる。ハレになる方法を知り、努力すれば状況を変えられるという希望が持てる。
 しかし、誰かがケの場にならなければならないなら、知識を得て、運命を変えることは悪なのではないか?
 ケとなるべき運命を逃れて、ハレの場に変えたなら、誰かが身代わりとしてケになる。

 もし、努力次第で、誰でもより良い場所に行けるなら、平等な世界が約束されている。
 しかし、ハレの場は限られているため、ケの場に甘んじなければならないなら、努力は損得に基づく判断。神の意志に沿わないだろう。

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 もし、「だから、苦しい状況に耐えよう」となるなら、わたしは悩みはしない。便器を磨くことでも考えるだろう。
 名誉や栄誉とは縁がないけれど、苦難とも縁がない。辛い役目を負っているわけではない。そんなわたしが、「だから、苦しい状況に耐えろ」といえるはずがない。でも、「よりよくなるチャンスが、誰でも平等に与えられている」ともいえない。
 耐えるのは、わたしではない。それを「運がよかった」と喜んでいいものだろうか?
 もし、自らの幸運を喜び、「努力が足りないから不幸なのだ」と他人を責めることができたら、わたしは悩まなかっただろう。しかし、ただの運で、いつ失われるか分からないから、自分と相手は違うと思うことができない。だから不安になる。
 「自分が幸運だったころ、不幸な相手に何もしなかった」という事実は、「だから、誰も助けてくれない」という脅威に変わってしまう。それが恐ろしいから、晴れやかな立場に立つことを恐れる。
 成すべきことを成せと言われても、何が成すべきことなのか分からない。

 宇宙を家とする存在があって、用途によって違う心や形が宿るなら、人が身分制度をやめても差が出る。「人には身分などない」といっても、不平等はなくならない。
 それを肯定することは、ブラフマンの家に生れて、「アウトカーストは必要悪」と肯定して、考えることをやめるのに似ている。ブラフマンが、不平等とどのような関わりを持つのか、答えていない。

 晴れ舞台で、華々しい活躍をする、品のよい客間のような人生がある。
 閉ざされた世界で、罵られて暮らす、汚れたトイレのような人生がある。
 もちろん、荒れ果てた客間もあれば、磨き抜かれたトイレもある。
 しかし、部屋の状態を変えることはできても、違う部屋になることはできないのなら、「平等」はなにをしめす言葉なのだろう?

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 実力を正しく評価すれば、「無能」と退けられることもある。
 「平均的」だから、「代わりはいくらでもいる」と無理を強いられることもある。

 たとえ、実力が正しく評価されなくても、優れたものなら自力で活路を見出すだろう。
 しかし、平均的なら、圧力を跳ね返すことは難しいと思う。恨みや憎しみを持つだろう。

 同じあきらめるでも、外からの圧力に屈したのと、自分の無力さに屈するのでは、痛みが違う。誰も責めることができない、自分の無力さの方が、何倍も辛いと思う。何の希望も持てず、それでいて死ぬこともできない。長い時間を耐えることになる。

 たとえ、社会から評価されなくても、個人的に評価されれば、支えになる。
 それなら、「実はあるけど、名を得られない」という不自由な世界を作った方が、よいのではないか。

 誰もが出世できないなら、外からの圧力でも、自らの無力さでも、「不遇の悲しみ」を分かち合える。
 外圧がなくなり、自らの無力さだけが問題になれば、世界は二つに分かれてしまう。
 「努力」「実力」という言葉が、感情的な断絶を引き起こしてしまう。

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 本当は、外からの圧力をはねのける実力を持っている。しかし、打ち破って、自分の思う通りにしない。
 日本の場合、「外からの圧力=自然の意志=神」という関係にあるのだと思う。「打ち破れないもの」として存在している。

 人間同士の争いでは、あえて耐える理由がない。また、自然のように無差別に力を放つこともない。除外される人間がでるため、全ての人が共有できる感情ではなくなる。

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 仏教でも、キリスト教でも、不平等に対する答えは得られなかった。
 でも、古神道のような原始宗教は、答えを与えてくれる。

 世界は、人に関係なく存在している。
 わたしがいても、いなくても、あるようにある。
 生きなくてはならない理由もなければ、死ななければならない理由もない。
 そう思えば、自由になれる。

 無関係な自由では、関係から起きる不自由の答えにならない。
 関係から起きる不自由には、仏教やキリスト教が答えてくれる。
 では、自由と不自由の間には、何があるのだろう?

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 わたしは、崇高という意識を持つことも、不幸を嘆いたり、他人を羨んで妬むことも、続かない。
 割りと淡々としている。

 それ自体は悪いことではないと思う。
 でも、シナリオや小説は、淡々としていては書くことができない。

 感情を偽れば、すぐに分かってしまう。
 でも、何かが書きたい。それがなんだか分からない。

 たぶん、不自由と自由の間にある世界、解けることのない疑問に答えを出そうとすることが、ハレの場にいるものの役目なのだと思う。
 疑問の答えは分からないけど、答えを求める過程で気づいたことが、わたしが書きたいことなのだと思う。
 だから、ブログを始めた。

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