古神道

 「よこしま」ってなんだろう? 嫉妬心のことなんだろうか?

 ウィキペディアで追うと、そんな感じ。
 「邪視→ファーティマの手→ハムサ→妬み→嫉妬」と読んだから、「よこしま=嫉妬」な気がする。

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 本「古神道行法入門」(大宮司朗、原書房、\2,000E、2003/11/07)を図書館で借りて、最後まで目を通した。
 「古神道は面白そう」と思った。

 一番驚いたのは、神仙道が日本生まれだと知ったこと。老子のたとえ話に違和感を覚えなかったのも、日本に関わりがあったからなのかもしれない。
 一番感心したのは、古代インドのウパニシャド哲学が知識なら、神道の鎮魂鳥居は実践的な行法だということ。
 でも、邪な心で行えば、邪な霊を呼ぶのだそう。
 だから、怖くて試せない。

 理解する鍵は、折り紙にあるらしい。
 以下は、わたしのイメージです。

 たとえば、何でもない一枚の紙を織り上げて、折鶴を作る。
 折り目をつけなければ鶴は折れない。鶴を作ったら、元通りに戻さなければ別の形は折れない。しかし、一枚の紙のままでも、折鶴でも、他の形に織りなおしても、大きさも重さも変わらない。不増不滅。
 だから、折鶴は護符ではないけど、「折る・包む・結ぶ」で表す真理が含まれている。

 知識として学ぶ場合、折り紙の本を手に入れて覚えるような感じになる。全てを対象にできる。
 実践する場合、どれか一つを選んで折ることになる。一度折れば、元に戻さない限り別のものには変えられない。まして、無垢な紙ではなく、癖のある紙なら、折れるものは限られてくる。特性を生かせるものは、自然に決まってしまう。状況や都合によって、変えることはできない。だから、対象が限られる。

 知識を中心にすれば、求めることに合うように作り変える必要がでてくる。だから、元が何でも構わない。
 身体を中心にすれば、状況に合わせて必要な特性を選ぶことになる。だから、適性が重要になる。

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 もう一つ、ずっと知りたかったことが分かった。
 いろいろ調べているうちに、「体験したことが無意識に影響を与える。それなら、逆もあるのではないか?」という疑問が湧いた。その答えが、古神道で見つかった。やっぱりあるらしい。信じきれたことが、現実になる。もちろん、簡単にはできないけれど、不可能ではないと思う。

 通常、外の世界に反応して、心や体に様々な反応が起きる。
 自然な状態では、まとまりなく活動している。修業によって、細胞一つ一つまで意識できれば、超意識状態になる。天狗のような技ができる。物理的な影響を受ける状態から、思念が物理現象を支配する状態に変わる。

 でも、現実にできることは、神の意に沿ったことだけ。
 悪いことをすれば、自分の中の気が乱れて狂ったり、気が外に流れて空になり死んだりするらしい。

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 修業の方法はいろいろある。しかし、全てを身につけることはできない。どれか一つを選ぶことになる。選んだ後、何年もかけて少しずつ身につけていく。ほとんどの人は、雑念が多いので、信じきることができない。
 でも、即、現実になったら、怖くない?

 普通は、迷ったり、悩んだりしながら、ちょっとずつ願いを知り、現実に変えていく。
 しかし、神の世界に「あそび」はないから、瞬間的に叶ってしまう。
 気が変わったり、間違えだと気づいたりしないのだろうか?
 神さまだから、しないのかもしれない。

 でも、次々と成し遂げたあと、何をするのだろう?
 何もやることがなくなってしまう気がしない?
 世界を見まわって、後継者を育てるのかな?

 実際、山にこもって、厳しい修業に耐えると、向こうから迎えに来てくれるらしい。
 無理矢理呼び出しても、降りてくるのは邪な霊が殆んど。自分を高名な神だと偽って騙そうとするらしい。
 だから、まずは自分自身の心を静めなければならない。

 果たして、全員が神になれるのだろうか?
 それとも、人として生きることが必要だから、人に生れるのだろうか?
 いつも同じ疑問にたどり着く。

 正直言ってわたしは、不老不死にも、不思議な力にも興味が湧かない。わたしがしたいことは、それらを得ても叶わないから欲しいとは思わない。

 肉体のままではどうやっても滅びる。だから、霊で作った体に魂を入れ直すことで不老不死になるらしい。
 しかし、霊性を保ったままできることは、霊的なことに限られている。それが、わたしのしたいことなんだろうか?

 本を読んだり、美味しいものを食べたり、恋をしたり、人が「肉で作られた体」を使って楽しむことを捨てて、清く正しく生きるのは、なんだかつまらない気がする。だから、行法を試すのが恐ろしい。つまらないと思う気持ちが、邪な霊を呼びそう。でも、人のままでいようとすることより、嫉妬から願うことを禁じているような気もする。

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 わたしは、嫉妬心が強い方だろうか?
 一時的に嫉妬することはあっても、長くは続かないような気がする。

 たとえば、健康問題があるから、妻や母役を果たすのは無理だと思う。すると、よい母、よい妻と呼ばれる女性に嫉妬する。したかったのに、できなかったから、うらやましく思う。
 でも、「何がしたいのか?」を考え続けた結果、違う姿がみえてきた。

 妻や母は、集団の価値観を受け入れて、「しなければ」と思っていただけで、実際には「知りたいことを調べたい欲求」の方が強い。でも調べてもお金になるわけではないから、自分で自分に禁じていた。
 つまり、できないことが悔しいだけで、やりたいわけではない。もし、当たり前にできたら反発しただろう生き方なら、嫉妬する理由はない。むしろ集団から要求された時、「やれないから、やらない」と退けることができるのだから望ましいくらい。

 できないことより、不健康を理由に好きなことをしているから、後ろめたいだけなのかもしれない。
 でも、日常に支障が出ているのは事実だから、手助けなしには行き詰る。
 本当に恐れているのは、自由に生きられる状況に嫉妬されることなのかもしれない。

 嫉妬されたくないから、困っていることを強調しなければならない。すると騙しているようで嫌な気分になる。嘘ではないけど、本当でもない。そういうのは、悪いことに含まれるのかしら?
 一緒に食べると約束したポテチを、一人で全部食べても「悪意がある」とは言わないなら、含まれないのかもしれない。でも、わたしは悪いことだと思うから、気になる。害意を跳ね返す強さがないから、不安になる。

 その不安から逃れるために、関心を持ったり、持たれたりする関係が必要らしい。
 健康・不健康に関係なく、害意を跳ね返す力はなかなか得られないから、誰もが求める。
 だけど、害意を感じる機会が減れば減るほど、関係を実感する機会も減ってしまう。

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 できることが増えれば、より大きな問題に行き詰って、難しい決断を迫られる。
 できることが少なければ、身の周りのことしか問われない。切実で辛いけれど、他人を巻き込む決断ではない。

 そうやって考えたら、強いものに嫉妬はしない。自分より困っているからといって、得意になることもない。相手に解決を求めてもどうにもならないなら、自分が決めるしかない。「頑張ればできるよ」と励ましたくなることはあっても、バカにする余裕はない。わが身に降りかかる難題に関心が向く。
 そういう風に恐れるのは、理性で考えるからなのだと思う。

 もし、手許に置いて愛でたいだけなら、嫌われても、喧嘩しても、関わりを持つ限り願いは叶えられている。
 また相手の運命は、自分の運命でもある。自立を促したり、責任を逃れたりする必要がない。

 わたしは、「長い間姿を見ないのは寂しいから、手許に置いておきたい」という感覚を持ったことがなかった。
 愛でたい気持ちがなければ、愛でられたい気持ちも湧かない。監視されているような不快感しか生まれない。
 あるいは、愛でられた経験がないから、愛でることを知らなかったのかもしれない。
 どちらが理由でも、知れば変わる。

 中学生のころ、白いクマのぬいぐるみをもらった。中学生だから、もうままごとはしない。使い道がなかった。
 ほったらかしはかわいそうだから、とりあえず一緒に寝ることにした。かわいいとか、大切だとか思ったことはない。でも、何もないと物足りなく感じる。でも、それだけ。愛着というものを感じたことがない。やってきては、去っていく。その繰り返し。とどまってほしいとか、とどまりたいとか、そういう気持ちがない。

 何もしないと好きじゃないみたいで、何かをしようとする。でも、何をすればいいのか分からない。だから、好きではないと思える。でもたぶん、わたしはクマのぬいぐるみが好きだったのだと思う。
 何にもしなくても好きだし、何かしても好きとは限らない。自分が感じていることを信じるしかない。それが分かったら、自分の好みが分かるようになった。

 わたしは、「子どもなんだから、親切にされたのだから」と要求されてきた。親子でも嫌なことは嫌だし、親切心からしたことでも喜べるとは限らない。
 それが普通で、相手の気持ちに合わせる方が不自然。でも、喜ばなければならない。
 虐げられているわけではない。でも、辛い。だから、わがままを悪と憎むことで均衡を保とうとする。

 感情は、どちらかといえば豊かな方だと思う。でも、自分が何を感じているのか、感じ取ることができなかった。
 自分では、どうすることもできなかった。でも、面白がってからかったり、不満をぶつけたり、子どものころできなかったことをしたら、分かるようになった。

 たとえば、「読みだした本が難しすぎたり、面白くなくても、最後まで読まずにはいられない」など、強迫観念に支配されなくなった。適当にやめられるようになった。「行きたくない、やりたくない」と断ることに罪悪感を感じなくなった。そのうち、落としたり、忘れたりすることを極度に恐れる気持ちも改まるかもしれない。今は、まだある。

 それでも結局、わたしは小さなことを気にするのだろう。
 憎むより、忘れることを選ぶのだろう。
 邪道に陥ることを恐れる必要はないのかもしれない。

 でも、邪な霊には来てほしくない。いるか、いないかは、問題ではない。怖い想像をしてしまうから嫌だ。

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 それにしても、古神道の世界と律令は相容れないのではないだろうか。
 身体を基本にする古神道と、一律の命令を基本とする律令では、正しいことが違ってくる。
 どちらにも秩序はあるけれど、古神道は自然が土台で、律令は願望が土台になっているような気がする。

 図書館で借りたのは、古神道の入門書。もうちょっと詳しい本を注文した。
 古神道が、わたしの宗教観に一番近いような気がする。

 案外、身近なところに答えがあったみたい。
 他の宗教について知ったことで、違いを意識できるようになったから、価値に気づけたような気がする。

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