見えてきたもの

 昨日借りた本を読む前に、今思っていることをまとめておこう。

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 相容れない、二つの美意識がある。

 一つは、理念に従って一律の対応をすること。
 もう一つは、本心に従って特別な対応をすること。

 宗教や教育で普及できるのは、理念に従って一律の対応をすること。
 しかし日本には、本心に従って愛憎劇を繰り広げることを肯定する美意識がある。
 改めて日本について調べてみると、インドより摩訶不思議だったりする。

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 信念によって、自分の行動を律したなら、相手に関係なく同じ反応を示す。
 誰にでも親切にするかわりに、誰も特別ではない。
 「○○さんだからする、○○さんだからしない」は否定される。
 「○○をするのは正しいか」が問われる。

 では、「正しさ」は何によって決まるのだろうか?
 教育の場合、「集団を維持することに有効か?」だと思う。
 宗教の場合、「神(仏)の意志に叶うことか?」だと思う。
 「集団のため、神のため」という理由があるから、自己を犠牲にすることに意義を見いだせる。
 共通の目的があるから、他人を自分の一部と感じることができる。

 通常、人は肉体によって仕切られている。自分の肉体から離れれば、「わたし」とは感じない。
 ところが、理念で結びついた集団は、「わたしたち」という感覚を持つようになる。

 人は、細胞に酸素が流れなくなると死ぬ。再び酸素を得ても、取り込むことができなくなる。腐敗がはじまる。
 細胞の死自体は、日常的に起きている。しかし、生きた細胞が活動し続ける限り、体全体は死なない。
 「わたし」という「全体を構成する細胞の一つ」が死んでも、「わたしたち」という「細胞の集合体」が生きている限り、命は続く。「より大きなものに所属している」という感覚を持つことで、死は終わりではなくなる。

 「より大きなものに所属している」という安心感は、単独では害がない。
 しかし、「所属していないもの」を発見した時、排除や差別が起きる。
 自らを善とし、所属していないものを悪とする、善悪のはっきりした世界観が生まれる。

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 では、理念に従って一律の反応を返すのではなく、心から欲することを求めた場合、どうなるのか?

 誰にでも反応する必要がないので、関心が集中しやすい。「欲しない」となった場合、ずっと外側のまま。すると「善悪」ではなく、「悲しみ」の世界が生まれる。

 「欲しない」が普通で「欲する」が特別な世界では、失恋は辛くても不幸ではない。
 愛するものがない時、「苦」となる。

 特別なものがない孤独に耐えられないから、愛しているふりをする。
 すると、心から欲しているのか、寂しいだけなのか、「見分けたい欲望」が起きる。
 疑い続ける心が「鬼」を呼び寄せる。

 本心を大切にすればするほど、鬼を生みだしてしまう。
 だから、「決められた通りに振る舞えばよし」という「建前」の世界が必要になる。すると、決められたことさえ守れば、誰でも受け入れられる平等な世界が生まれる。

 「本心であること」を求め、愛されない苦しみを背負うことを選べば、正しい振る舞いは否定される。
 宗教も哲学も生まれない。内面が重視される、芸術の世界に生きることになる。

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 理念に従い、一律の反応をする場合、全員が参加することができる。参加しないことは悪となる。
 本心に従い、特別な反応をする場合、全員が参加することはできない。強制は悪となる。

 好きになった相手から、好かれれば強制する必要はない。
 では、失恋を繰り返したなら?
 脅してでも自分に関心を持たせるか、相手の幸せを自分の幸せとするか、反応は両極端にわかれる。

 関心を持ってくれない相手に恋をすれば、憎しみが生まれる。
 しかし、見ているだけで満足すれば、憎しみは生まれない。

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 理念に従って、親切にしているわけではない。
 親切にしたいから、親切にしている。
 だから、相手が自分に関心を持たなくても、様子が分かれば満足する。

 もし、相手が自分に関心を持ったら?
 相思相愛になって、傍観者から特別な一人に変わったら、みんなに親切ではいられなくなる。
 傍観者として、好きなものに愛情を注ぐだけなら、楽しいだけ。
 しかし、当事者として、好意を得られなかった相手から憎まれるのは、心苦しい。

 身を引いても、解決しない。
 応援することも、不自然。
 なにもやりようがない。
 だから、わたしは恋愛が嫌いなのだと思う。好きになるのに、恋愛関係になることを望まない。「もっとも望ましいことは、もっとも望ましくないもの」という矛盾に苦しむことになるから。

 「一人に関心が集中する現実」と「誰にでも親切にする理想」がぶつかって、どうしていいのか分からなくなる。
 「特別な好意=特別な親切」と理解しているから、本心が見えなくなる。

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 結婚は、集団活動。だから、理念や信念に従って行動すればよい。求められるのは全体に対する判断で、特別扱いではない。家族なら誰であっても、親切にすることが求められる。好きで結婚した相手だけでなく、関係者全員に親切にすることが求められる。
 恋愛は、個人的なもの。理念や信念より、相手を重視することになる。求められるのは、自分の望みを示すことで、判断ではない。周囲にすすめられても、恋愛感情を持てるわけではない。

 集団には、共通点がある。目的や理念を共有することで、「わたしたち」になれる。
 しかし、目的や理念を共有しても、相手とは違う部分が残る。「彼ら」というほど遠くもなく、「わたしたち」というほど近くもない、「あなた」という存在が意識される。

 その場に居合わせたというだけの縁なら、違いは極めて大きくなる。それでいて、他人ともいえない。
 恋愛の始まりは、そんな感じなのかもしれない。

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 もし、お互いに社会的な価値観に従うことで折り合いをつけたなら、話し合う必要はない。習慣に従えばすむ。
 自分の感覚を持ち込み、受け入れてくれることを求めたら、理解してもらう必要がある。

 互いに、理解されることを求めるだけなら、共通の価値観は生まれない。
 互いに、理解しようとするだけでも、やっぱり共通の価値観は生まれない。
 伝えることも、理解することも、必要になる。
 当然、語ることが苦手なものや、実行する意欲に欠けるものは、理想の世界からこぼれ落ちてしまう。

 そういうやりとりを経て、社会的な価値観とは違う「わたしたちの世界」を持った時、利害は消滅する。
 日本的な美意識には、そのような「オリジナルな二人の世界」が理想としてあるように思う。
 どちらかが、どちらかに合わせるわけではない。違う感じ方をして、違うことをしている。しかし、結果的に互いを支え合って、二人の世界を生み出している。

 「オリジナルな二人の世界」を肯定すれば、「一律な平等な世界」は否定される。
 愛し愛され、互いの価値観を大切にする意志と能力を持つ「理想的な世界」からは、美談が生まれる。
 「愛されない、大切なものを踏みつける、何が大切なのか理解できない世界」からは、怪談が生まれる。
 その間には、どちらにもなりきれない普通の世界が広がっている。

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 映画「バトル・ロワイアル」は、暴力描写がたくさん出てくる。でも、時間をかけてじわじわと殺すわけではない。即死に近い死に方をする。だから、情念を感じなかった。
 この映画で、わたしが情念を感じたのは、好意の方だった。恨みから殺すわけではない。だから、怖い。

 「好き」は、理屈からは生まれない。
 しかし、「好きだから守りたい」と考えたなら、理屈で判断する。どうすれば守れるかを合理的に考える。

 お互いに相手に生きていてほしいと思っている。
 しかし、相手を生かすためには、自分が死ぬしかない。

 死ぬことは恐ろしい。
 しかし、犠牲にした人の分も生き続けることはもっと恐ろしい。

 ところが、自分だけは生き残りたいと思えば、他人を犠牲にして生き続けることは辛くない。
 しかし、そんな相手のために犠牲になろうとは考えない。
 もし、疑念に囚われて殺したにも関わらず、自分の安全を気遣ってくれたなら、殺した事実に耐えられないだろう。映画には、そういうシーンもあった。

 誰からも愛されず、誰も愛さず、生き残ることだけ目指せば、抜け目なく立ち回れる。
 しかし、負ければ、忘れられる。だから、勝ち続けることが生きる目的になってしまう。勝っても意味はない。

 自分を犠牲にしてでも守りたい誰かがいるのか?
 自分のために犠牲を払ってくれる誰かがいるのか?
 そのどちらも得られなかった場合、愛されることも、憎まれることもなく、無関係に死ぬ未来が待っている。

 無理矢理関係を作ろうと思ったら、恐怖を与えればいい。
 しかし、怖いから従う相手しか、関心を持ってもらえない。
 どうすれば、無の恐怖から逃れられるのか?
 一律平等という仮面をはがれた世界は、子供には残酷すぎて耐えられないのではないだろうか。

 何となく一緒にいるというケースがほとんどで、本心から愛し愛されるような関係は、めったに起きない。
 起きないと分かっているからこそ、孤独をいやして、気にかけ合うのだと思う。
 起きないと分かっていて、気にかけ合うことで癒されようとしなければ、恐怖を与える。小説「嗤う伊右衛門」で描かれた岩は、そんな人物。心根が清く、強い。

 そんな呪わない美談の陰には、憎まれもしない孤独が隠れている。
 DVD「嗤う伊右衛門」やDVD「怪~ayakashi~化猫」は、そんな感じ。

 岩は、伊東に騙された。しかし、真実を知っても、騙された伊東に関心を向けることはなかった。岩が意識したのは伊右衛門だけ。
 タマキも、自分を虐げた相手を憎むより、自分より弱い子猫を守ることを選んでいる。モノノ怪になった猫も、花嫁衣装を着た若い娘を見て、タマキに会いたくなっただけに見えた。恨みを晴らすためではなく、ただ会いたかった。会うために邪魔なものは平気で殺すけれど、それ以外には関心を向けない。だから、原因を作った人物が生き残った。

 罰さえ与えられず、忘れ去られる。そんな人物が、愛されることはあるのだろうか?
 岩と違って、タマキは誰にでも優しそうだから、親切にはしてくれただろう。けれど、情熱的に愛することはなかったのではないだろうか。平等に接する人は、たいてい情熱的な愛情を持たない。「あなただけ特別にする」「あなたさえいればいい」と考えない。集団的・家族的な愛情を持つ。

 小説「覘き小平次」の小平次も、岩に似ている。ただし、こちらは相思相愛ではない。でも、似ていると感じた。
 損得に従って動けば、歯車は狂わない。しかし、本心に従うものが現れると、歯車は狂う。
 作者が同じだからなのかもしれない。でも、わたしはそんな印象を受けた。

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 制度は、人工的に作られたもの。意図的に、決めたことを守るから成り立つ。
  「○○すべき」と自ら行う。
  「○○すべき」と他人に強制する。
 結果的に、誰の気持ちとも違う「建前の世界」ができる。

 本心は、無意識に起きる。だから、意図的に演出することはできない。
  好意は、努力しても得られるとは限らない。
  過ちを犯しても、嫌われるとは限らない。
  困ると分かっていても、その人でなければならない。
 だから、自分の気持ちに正直に行動すれば、建前の世界を崩壊させる。

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 最も分かりやすい信念は、利害だと思う。
  得することなら、嫌いでも我慢する。
  損することなら、同情はしても関わらない。
 だから、損得を考えれば、相手の行動が分かる。共通認識ができる。

 自己を犠牲にしてでも助けたり、意地悪するために危険を冒せば、行動は予測しにくくなる。
 それでも、「○○さんは××する」という理解が生まれれば、ある程度は予測可能になる。
 重要なのは、相手が誰かではない。「自分が、正しいと信じられるか」で決まる。だから、揺るがない。

 ところが、恋は違う。相手次第で決まってしまう。
 ある人に起きる感情が、別の人では起きない。「誰に起きて、誰に起きないか」「一時的なものなのか、死ぬまで続くのか」は、当人ですら分からない。

 終わりを予言するより、続くことを信じる方が難しい。
 昔見た映画の中で、「不幸に耐えるより、幸せになる方が難しい」と言っていた。
 たぶん、幸福が続くほど、大きな不幸が待っているような気がして、不安になってしまうのだと思う。

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 親切をよいことだと考えて、親切にしたいからする。自分のためであって、相手のためにしているわけではない。だから、楽しい。
 最初は、それだけだった。でも、そうするのが当然と期待されるようになる。すると、楽しくなくなる。

 興味が湧いたから話を聞くのではなく、相手に悪いから話を聞く。しかし、いくら自分が相手の話に耳を傾けても、相手が自分の話に耳を傾けてくれることはない。つまらない、興味がないと遠ざけられる。

 自分が理解されることはない。
 相手を理解することだけが求められる。
 つまり、聞き手であることをやめたら、その関係は終わってしまう。
 それでも、信念に従って関わりを持ち続けるべきなのだろうか?
 わたしには続けられなかった。そして、「他に方法があったのかもしれない」「もう少し待てば、変わったのかもしれない」と後悔する。罪悪感を持ってしまう。

 親切にすることは、よいことだと思う。親切にしたい。
 でも、信念に従えば従うほど、自分の気持ちから遠ざかってしまう。
 信念に従いたい気持ちも本心なら、関係を放棄したいのも本心だから、答えが出なくなる。

 もし、集団的・家族的な関係から逃れることができない時代に生れたら、悩むことはなかっただろう。好意は、気持ちではなく、行動で示すものだから、よく働く嫁はよい嫁で、愛情の証と認められた。
 働けない嫁、子どもを産めない嫁は、わるい嫁で、追い出されても文句は言えなかった。

 利害で追い出すことは、非情に見える。
 しかし、働けなくても、愛情を持ち続けることを求められたら、相当な覚悟がいる。敷居が高くなる。

 世話をする側も、世話を受ける側も、負担を感じる。それまでの関係を終えて、新しい関係を築く時、恋愛と同じ問題が起きる。世話すること、世話を受けることについてどう思っているのかとか、相手の考えを知りたいと思う。
 恋愛経験を経て結婚した場合、お互いの気持ちを語りあった経験がある。
 集団的な価値観に従って、夫婦の役目を果たしてきただけなら、話しあった経験はないと思う。

 問題が起きた時、お互いの気持ちは全く違う方向を向いている。
 意見が違うのではなく、関心を持っていることが違うから、話し合いにならない。
 相手が知りたがっていることは、自分が気にしたことがない問題なので、意見を持っていない。
 もし、「そんなことはどうでもいい」と拒絶してしまえば、共通の価値観は育たない。だから、「自分は、どう思っているのか?」を考えることになる。
 興味があるわけではないので、何から考えればいいのか、何を考えればいいのか分からない。それでも相手を安心させるためには、答えなければならない。Noでも、Yesでもいい。態度を決める必要がある。

 自分が答えてほしいから、相手の問いにはできるだけ答えようとする。
 たとえ、意見が合わなくて別れることになっても、自分が気になっていることに答えてくれたのと、無視されたのでは心証が違う。反対されたり、意外な結論でも、答えてくれれば満足する。無視されれば、どう思うのか分からず、悩み続けることになる。憎しみすら生まれる。憎み続けることは辛いから、忘れることを選ぶ。

 自分が問いかけた場合、相手が態度を決めるまで、待たなければならない。
 気になるから、早く答えが知りたい。でも、急かして、適当に答えられたくはない。だから、催促したい気持ちを抑えて待つ。とうとう待ちきれなくなって催促したら、聞かれたことさえ忘れていた。
 聞いても答えない。忘れてしまう。そういう人は、わたしには合わない。目的と期限があれば付き合えるけれど、一緒に暮らすことは無理。価値観が違いすぎる。

 問題が起きれば、習慣ができるまで、落ち着かない状態が続く。
 付き合い始めたころのように、緊張する。
 恋愛のドキドキ感なら、楽しめるかもしれない。しかし、好きだから一緒に暮らすようになって、習慣が出来上がった後で起きる変化は、楽しめないと思う。それでも、愛着があれば、乗り越えられるのかもしれない。

 でも、「危機が訪れた時、結束するより崩壊する傾向が強いから、美談になる」と新聞の記事で読んだことがある。
 めったに起きないと分からないときは、義務だと思っていた。
 難しさを知った今は、自己を守った上で取り組むべきことなのだと思う。

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 誰にでも親切だと、自分にも親切にしてくれるのではないかと期待する。
 しかし、期待通り親切にされても、それを特別な好意だとは考えない。親切な人だと思う。

 そういう判断の仕方をするのは、小さいころ、周りが何をしているのかよく分からず、ただそこにいるだけだったからなのだと思う。自分を受け入れてくれれば、親切な人だと思う。でも、特別な好意だとは思わない。愛されるイメージを持っていないから、気づかない。

 わたしとは反対に、ただの親切を「特別な好意」と思い込むこともあるのだと思う。
 無意識が反映されて、正確に相手の気持ちを知ることは難しい。
 でも結局、感じたままを信じる以外にないのかもしれない。

 言葉で追うことができない、漠然とした世界に足を踏み入れることは、すごく嫌だった。
 感覚の世界、情念の世界は、わたしには怖いものだった。
 でも、最善を尽くすことができないわたしを救ってくれたのは、情念の世界だった。

 誰にでも親切にしようと思うから、みんなと同じようにできないことにイライラする。
 でも、差をつけてもいいのだと思ったら、大切なもののためにできることをしようと思い直せた。ついでに、結果を恐れなくなった。

 よく分からないけれど、わたしの中で対立していた二つの美意識が、混ざり合って一つになったような感じがする。
 何かに追われるような恐怖は、すっかり消えてしまった。

 イライラして言いがかりをつけても、理屈で諭すことも、自分の行為を正当化することもなく、「そういうところもあるかもしれない」と真面目に取り合われたら、言い勝っても負けてしまう。
 親切にしたから、親切にしてくれるわけではない。建前を守っているわけではない。
 それなら、こちらも建前でやり過ごすわけにはいかない。わたしはいったいどうしたいのか、考えたことのない問題を考えるようになる。

 やってみて、建前でやり過ごす方が、いかに楽かよく分かった。
 それでもやっぱり、本心に従うことを求めるわたしは、日本人的なのだと思う。
 変わったのは、喜びの世界を求める気持ちになったこと。誰にでも親切にすることより、大切なものを大切にしたいと思うようになったこと。

 何にも、誰にも関心を持てない不幸を、わたしは知らない。
 その代わり、不幸を願うほど、強い執着を持つこともなかった。
 面白ければよかった。
 最近は、明らかに感じ方が変わってきた。

 旅人から、定住者に変わりつつある。
 旅に求めることと、定住するために気にすることは違っている。これまでは、定住したいと願いつつ、旅の楽しさを求めていたような気がする。どこも珍しくて、もっと知りたいような、違う場所も見たいような気分だった。
 しかし、これ以上よくなることはない。どこにでも行けるわけではない。できることは限られている。
 限界を突きつけられた悲しみの果てには、「できることは限られているけれど、ほしいものが含まれているなら、悩む必要はない」という安心感があった。

 いつか、ほしいものですら、手に入らなくなるかもしれない。
 でも、ほしいことを知らない方が、ずっと不幸な気がする。
 だから、失う恐怖は感じない。

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 たくさん本を読んで、わたしが漠然と感じていたことが何なのか、姿が見えてきました。
 でも、もうちょっと読み続けましょう。

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