ヒーロー願望

 わたしが、愛について思うことをまとめた記事です。

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 道に迷った人を助けるのと、一人で歩けない人を助けるのでは、意味が全く違ってくる。

 道を教えることは、その場限りの出来事で、次を期待されない。観光地に住んでいて、よく道を聞かれるとしても、相手が違っている。お互いを知らないし、過去や未来に関わりを持たない。その時、その場で出会った相手に聞くため、遠くにいるのに呼び出されることはない。

 道に迷った人は、自分で自分のことができる人が、一時的に弱い立場に立っただけなので、関わり続ける必要がない。

 道徳の時間に扱われる「親切」は、道案内のような一時的なものが中心。ところが、現実には、毎日関わらなければならない「弱者」との付き合いが中心になる。

 もし、手を貸すものの都合で、やったり、やめたりできるなら、親切は苦痛ではない。自分が恵まれていることを確認する手段にもなる。優越感を持つことができる。
 しかし、弱者の希望を実現するために、強者が動員されれば、「自分ですら叶えられない願いを、どうして何もできない相手のために叶えるのか」という不満が起きる。

 もし、どんなささやかな用事でも、どんなに難しいことでも、「その人から必要とされること」が嬉しいなら、どちらの願いか区別はなくなる。

 Aさんは、さくらんぼが食べたいと思う。
 Bさんは、さくらんぼは好きではないけど、Aさんを喜ばせたいと思う。
 Bさんにとって、「さくらんぼが手に入るか?」「手に入れたさくらんぼを受け取ってくれるか?」「気に入ってくれるか?」が問題になる。「Aさんが、Bさんに何をしてくれるか?」は出てこない。なぜなら、Bさんは自分の願いを叶えたのであって、Aさんの願いを叶えたという意識がないから。

 自分では手に入れることができない弱者(Aさん)を救うヒーロー(Bさん)ではなく、相手(Aさん)の反応に一喜一憂するただの人(Bさん)として存在している。

 ヒーローと聞くと、一般の人ができないことができる人物を思い浮かべる。しかし、特殊な才能がなくても、ヒーローになることはできる。
 相手にできないことが、自分にはできる。自分がやらなければ、相手は困る。だから代行する。そういう感覚がヒーローを生み出す。

 たとえば、道に迷っている大人に対して、場所を知っているなら幼児でもヒーローになれる。「あっち」と指さすだけでも、迷子から救われるから。

 たとえば、エレベーターで「開く」のボタンを押して、相手を先に下ろすだけでも、「よいことをした」「役に立った」という満足感がある。たまたまスイッチの近くにいたから押すだけで、離れた場所にいるときは押してもらう。誰にでも気軽にできるヒーロー。

 では、強弱が変わらない場合はどうなるのか?

 病弱で働くことができない。しかし、家の中のことは、休みながらできる。そういう場合、代わりに家事を頼むことはあっても、代わりにお金を稼ぐことはできない。交換不可能な役割分担。
 病弱でなくても、男女では給料に差があるため、女性の収入だけで暮らしを支えることは難しい。また、出産は女性にしかできないため、産休中の給料が保障されない場合、生活のために子どもを産めなくなる。

 女性が稼いで、男性が主夫になれる職業は、専門性が高い仕事に限られる。誰もが選べる方法ではない。

 趣味で料理をすることと、家の管理を引き受けることは、全く違う。主婦は、管理と労働を同時に行っている。家の中だけでなく、地域の付き合いもある。集団活動なので、自分の思い通りにならない。求めに応じて動きながら、部分的な改善を求めることになる。対等な関係を維持しようとおもったら、全体を変えるような主張は難しくなる。また当番の間問われるだけなので、どうしても変える必要もない。

 会社でも、家庭や地域でも、集団活動という意味では似たようなことが問われる。
 地域の場合、競争がない代わりに、共通の目的も曖昧なので、まとまりにくい。その上、報酬もない。名誉もない。一緒に活動する人と気が合えば楽しみになる。会わなければ苦しみになる。
 会社でも気が合わないと辛い。しかし、仕事が終われば顔を合わせなくてすむ。地域はいつ会うか分からない。悪化すれば、常に監視されているような気さえする。

 どちらか選ぶことができるなら、わたしは家庭より仕事の方を選ぶと思う。やりがいがあるから。

 もし、会社より、家庭や地域で働きたいと思う男性が多いなら、女性が稼ぎ手になれない社会環境は問題になる。
 しかし、多くの男性は、稼ぎ手を好む。だから、主夫という選択肢がないことは問題になっていない。
 女性自身、稼ぎ手として責任を持つより、家や地域で働くことを望む傾向があるように思う。自分のために働くことは望んでも、家族を養うために働き続ける覚悟を持っているわけではない。
 他人のために責任を持つ覚悟は、簡単には決まらない。稼ぎ手として養うことも、家の管理を引き受けることも、途中でやめることができない。続けていくプレッシャーに耐えられるまで、家庭を持つことは望まないと思う。

 ここまでは、状況によって強弱は固定されているけれど、お互いに補い合う関係にある。弱点があるだけで、弱者とは言えない。
 では、誰かが世話をしなければ、即刻死ぬような「弱さ」を持っている場合はどうなるだろう?

 赤ん坊は、自力では生きられない。世話をやめれば、死んでしまう。「腹が減れば、自分で食べ物を探す」ができるのは、家の中なら、幼稚園に入るころだと思う。それまでは、動くことができても、食べ物以外も食べてしまう。注意しなければ、死んでしまう。
 家の外も含めるなら、稼げるかどうかで変わってくる。生涯、自活できない人も多い。

 福祉が充実している今は、金銭的な問題だけなら、生活保護で解決できる。
 問題は、家の中でも、「自力では生きられない弱さ」を抱えている時に起きる。

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 あなたが強者で、世話が必要な弱者が家にいたとしよう。
 もし、一人暮らしなら、仕事や買い物から帰って、「疲れたから一休み」を遠慮することなく選べる。意識することさえない。自然に休むだろう。
 ところが、世話を必要とする弱者が待っていて、次々に用事を言いつけられれば、自分の意志では休めなくなる。

 あなたが求めているのは、世話の免除ではない。一休みして、自分の呼吸で動くことを求めている。

 長時間、工場でラインにつく場合、必ず休憩が入る。トイレに立ったり、お茶を飲んだり、自分の意志で選べる。
 決められた仕事をこなし続けることは辛いけれど、時間が決まっているから耐えられる。それでも、自由になる休憩時間が途中に確保されていなかったら、とても耐えられないだろう。

 育児や介護には、明確な区別がない。「結果的に何もしない=休憩できた」はあっても、「用事で呼ばれるかもしれない」と待機しているなら、休んだことにならない。

 もし、「この時間は、生死に関わる問題が起きない限り、干渉しない」という暗黙のルールができていればいい。
 しかし、気になった時に、気になったことを言われると、落ち着く時間が持てなくなる。

 相手が自分ではできない弱者の場合、「拒む=死」となる。引き受けざるを得ないので、無理をしてしまう。
 相手が、弱者ではなく、「自分でできるけど、やらずに人に命じる人」でも、結果は同じ。しかし、「自分でやって」と拒むことができるなら、大きな問題にはならない。もし、支配的な相手で、逆らえば暴力を振るうなどの報復があるなら、深刻な問題になる。主体性を失い、命じられるままに動く状態に陥ってしまう。

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 「悪い結果にならないか、気になる」という状態は、「自分でする」か「誰かに依頼する」まで続く。
 精神的に弱いと、自分一人で注意を払い続ける状態に耐えられず、第三者に責任を押し付けたくなる。

 たとえば、弱い立場にある部下が、上司から「今やれ、すぐやれ、早くやれ」と怒鳴られ、行動を監視されたらどうなるだろう?

 もし、優先順位をつけて、計画する自由があるなら、仕事の合間に休憩をとっても責められることはない。
 しかし、常に行動を監視されているなら、働いているフリをせざる得ないと思う。緊張を解けなくなる。

 夫婦の場合も、同じことがいえる。主婦は、家庭が職場なので、やらなければならないことを片づけている。家に一人でいる場合、優先順位をつけて行動できる。ところが、休日に家族がいる場合、用事は変わらないのに、計画的に進めることができなくなる。
 いつでも、どこでも、どんな状況でも、「お茶」「めし」「新聞」などと命じられ、すぐに応じなければ怒鳴られるような場合、24時間緊張して暮らさなければならない。
 仕事も、休憩時間も、容赦なく割り込まれる。たとえ、「相手が休むため」に「自分の休みを邪魔された」としても、文句の一つも言えない状況が続いたら、相手の存在そのものを憎むようになる。

 職場でも、家庭でも、他人と行動する時は、余裕を与えることが欠かせない。

 仕事ができる男は、家庭でもよい夫となるとよく言われる。
 それは、「家事を手伝ってくれるから」ではなく、「妻や子が、主体的に行動できる余裕を与えて要求するから」だと思う。要求しないことが優しさではない。要求する時に、相手のタイミングで動けるように、強制しないことが優しさなのだと思う。

 ところが、そういうやり方ができるのは、自分で計画して行動できる相手に限られてしまう。「頼まれたことを忘れる」「やらずにすませようとする」を繰り返す場合、相手の行動を監視する必要が出てくる。

 上司が、部下に仕事を命じた場合、「その会社にいる限り、上司も部下も、実行が求められる」という関係にある。
 では、子どもが、親に遊びに連れていくように頼んだ場合、親にとっての意味はあるだろうか?

 一般的に、「休み=好きなことができる」という図式がある。
 休日に子どもが行きたい場所に連れていくことは、子どものための休みで、大人のための休みではない。

 子どもは「遊びに連れて行って」といい、親は「休みぐらい休ませて」と拒む。そういう親子喧嘩は、子どものころは深刻な問題に感じても、大人になれば解決する。自分もまた、「休みには休みたい」という大人になっているので、「遊びに連れていかない=子どもへの愛情がない」でないことを理解するから。
 休みたいという自分の欲だけで決めているわけではない。遊びに行かなくても困らないけど、仕事を失えば家族が窮地に陥る。だから無理してまでやりたくない。

 では、「○○が食べたい」と要求したのではなく、「○○が食べたいだろう」と与えられ、「親切には感謝しなければならない」と喜ぶことを期待されたらどうなるか?

 食べたいものは他にあったのに、好意に感謝しないと、感謝するまで責められる。本当に食べたかったものは言えないまま終わってしまう。そして、次も、その次も、欲しくないものを与えられ続ける。
 そういう悪循環は、本人以外には分からないので、余計に苦しい。誰からも理解されない孤独を感じる。

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 「たべたいけど、自分では手に入れることができない弱者」として、相手を自分より下に見た場合、感謝を当然の権利として受け止める。感謝の言葉に、「当然のことをしたまで」と謙遜する時、「できる」という自負が感じられる。

 しかし、弱者は、自力で手に入れるまで待つことも、あきらめることもできた。

 自分には一生かかっても、できないかもしれない。それなのに、相手は簡単にできた。
 そんな相手から、「自分にならできるから、助けてあげる」と言われて、嬉しいだろうか?

 芥川龍之介「芋粥」の主人公のように、施しを拒む方が自然だと思う。

 もし、友人だったら、与えただろうか?

 相手が自力で守っている生活を尊重して与えないと思う。
 高級クラブに出入りできる経済力があっても、友人が安い酒場にしか行けないなら、一緒に行く時は安い酒場へ行くと思う。相手の生活を尊重して、友情を示すことになる。おごってもらうことも、おごることもできる関係を維持する。

 ところが、恋人の場合、自力では腹いっぱい食べられない芋粥を与えることが、自然な行為に変わってしまう。

 自分の収入では、さくらんぼは買えない。
 しかし、世の中には、さくらんぼを買う余裕がある人は、たくさんいる。
 自力で手に入れるまで待つことも、自分には無理とあきらめることもできる。
 しかし、たくさんいる中から、特定の相手に自分の要求を伝えて、好意に甘えることを選んだ。

 この「好意に甘える」があって、冒頭の例に上げた「期待に応える」が起きる。
 弱い立場にあっても、誰にも踏み込ませない領域がある。そこへ、他人を入れた。

 「自力で手に入れるまで待つことも、あきらめることもできる」という認識がある場合、「できること」で優越感を感じてヒーローとしてあがめられることを期待しない。自分と関わりを持つことを望むかどうか気にして、相手の反応に一喜一憂すると思う。

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 できることを認められてヒーローになった場合、「できれば、わたしでなくてもいい。誰でもいい。役割を果たすことをやめれば、みんな去っていく」という虚しさを感じる。世の中に出て、役割を果たす立場にある人は、そういう虚しさと無縁ではいられない。

 しかし、隠しようがない弱点があるわたしは、見知らぬ人と親しくなることを恐れる。無理なくできる範囲で付き合い、できないことは隠しておきたいと思う。
 なぜなら、人は自分の役に立つ相手は大切にするけれど、自分が負担を追わなければならないと分かれば、去っていくものだから。最悪なのは、自分の方が大変と負担を求めてくる場合。

 こちらは、代行してほしいから事情を伝えているわけではない。わたしができる範囲を示しているだけ。
 酒場の例に戻るなら、「安酒場でしか飲めません」と言っているのであって、「高級クラブに連れて行って」と言っているわけではない。
 相手が、「高級クラブが好きで、安酒場は嫌い」なら、「安酒場でしか飲めない人と付き合うこと」は苦痛になる。
 しかし、好きなら、相手に合わせて安酒場を選ぶことは苦痛ではないと思う。新鮮に感じられるかもしれない。

 恋することで、世界が広がるのは、そんな時だと思う。
 男女に限らず、何かを好きになる時、それまでしないことをするようになる。

 しかし、友人は一緒に行動する範囲が限定されている。一人の時間があるから、合わせることがあまり負担にならない。その場だけだから、自由を失うことはない。
 恋人や夫婦は、行動する範囲が広いので、どちらもできることに限定すれば行き詰ってしまう。甘えたり、甘えられたりするようになる。

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 この記事の前、ブログ「管理社会と盲目的な愛」で感じた疑問の答えも、そこにあるような気がする。
 能「鉄輪」は、死にたくない相手を殺そうとしているのだから、すでに愛ではない。憎しみに支配されている。

 本「マハーバーラタ ナラ王物語 ダマヤンティー姫の数奇な生涯」(鎧淳(訳)、岩波文庫、\398E、1989/11/16)も、苦しい境遇に遭う。でも、互いに思いあっているし、よくなるように目指している。

 同じ執着でも、「鉄輪」は憎しみで、「ナラ王物語」は愛情に溢れている。
 「鉄輪」の女が、元夫に執着する気持ちは、わたしには理解できない。それは、憎しみの心が理解できないからではなく、わたしなら自分だけ助かるように祈祷を頼んだ元夫を嫌いになると思う。別れてよかったと思うだろう。

 わたしは、二人が幸せだったころを知らないから、そんな風に思うのかもしれない。
 ナラ王物語では、二人が幸福だったころを知っている。だから、ナラ王に置き去りにされたダマヤンティー姫の気持ちに共感できるのかもしれない。でも、ダマヤンティー姫は、置き去りにされた不満は言うけど、ナラ王への怒りを口にすることはない。ダマヤンティー姫が呪ったのは、ナラ王を変えてしまった何者か(魔神カリ王)で、ナラ王ではない。

 ダマヤンティー姫は、自分の気持ちに正直だった。ナラ王自身が変わったのか、何者かが悪さをしているのか、状況は分からない。しかし、ダマヤンティー姫が、「ナラ王と一緒に暮らしたい」と思っていることははっきりしている。だから、そうなるように行動する。相手が去ったからとか、真実を確かめてからとか、状況に振り回されないで、望むことに忠実に行動している。

 結果が出ないとしても、自分の望むことが叶うなら続けることができる。
 やり遂げても、自分の望みが叶わないなら続けられない。殺しても愛情が戻らないなら、意味がないと思える。

 意味を考えずに、感情に任せて行動することは、わたしにはできない。体が丈夫でないと、よい事でも、悪い事でも、計画しなければ動けない。思いついたらすぐに行動というわけにはいかない。数を絞って、多くはあきらめることになる。だから、憎しみに突き動かされて、殺すようなことはない。激怒しても、行動を計画している間に放棄されると思う。

 思い通りに動ける人の感覚は、わたしには理解できない。
 だからどうしても、弱いものを描くことになる。

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 「虚しさを感じること」や「相手の反応に一喜一憂する態度」は、わたし自身のものではない。モデルがある。

 櫻井敦司の歌の世界に登場する人びとは、虚しさを感じている。全く同じではないとしても、作詞した本人も感じているのだろう。
 虚しさ自体は、よく聞く話で珍しくない。虚しさをお酒で解決することも、珍しくはない。

 できないことが多いわたしは、自力でやり遂げたい気持ちが強いので、あまり虚しさは感じなかった。
 弱者扱いされることから身を守るために、意地でも自分でやろうとしていた。だから、自分の力を必要としてほしいと思ったことがない。

 わたしは、虚しさも感じないし、相手の態度に一喜一憂することもない。だから、何を言っているのか理解できない。
 意味は分からなかったけど、お酒で解決しないだろうとは思った。でも、大人がそういうのだから、解決するのかもしれない。どうなるんだろう?

 疑問の答えは、お酒で虚しさを埋めることはできないで正しかった。しかし、意味がないと分かっていても、意味があることが見つからないからすると気づかなかった。

 子どもは残酷だから、「王さまは裸だ」と指摘してしまう。指摘された王さまが、対処を求められて困ることなど考えない。
 子どもは残酷なだけでなく、飽きやすい。分からないことがある間は、興味を持つ。しかし、謎が解ければ飽きてしまう。

 虚しさの意味がなんとなく分かっても、ヒーロー願望があるわたしには、相手の反応に一喜一憂する櫻井敦司の詩の世界は永遠に謎だと思う。櫻井さん以外で、同じことをする人を知らないから、多くの人にとっても謎だと思う。
 長い間見続けて、そういう人だと分かっていても驚く。方向性は想像ができても、行動まで想像しきれない。

 無理をしてでも、自分でできることを証明したかったころは、見るとイライラした。たぶん、わたしがいくら「みんなと同じようにできる」と証明しても、意味がないことに気付いてしまうからと思う。
 無理をしているから、他には何にもできなくなる。どこまでいっても、みんなと同じにはならない。

 状態が違うことを理解されず、「簡単だから誰でもできて当たり前」と強要されれば、無理をする意味がある。でも、代行を受け入れてくれるか気にされれば、無理をする理由がなくなってしまう。「できる・できない」という能力の話ではなくなる。
 そういう受け止め方があること自体が、わたしにとっては脅威だった。だから、見るとイライラする。それでいて見ている間に納得してしまうから、余計に腹が立つ。自分が望んでいることが何なのか、分からなくなる。

 好意的な相手なら、弱点を隠す必要はない。しかし、好意を持ってくれる相手ばかりではない。無理をしてでも、できると言わなければ、嫌な役目を押し付けられかねない。だから、隠そうとする。
 会社で働く人なら、隠さざるを得ない経験を持っていると思う。

 それでも、隠しきれなくなる日が来る。
 回復すると信じられたころは、態度を変える必要は感じなかった。しかし、治らないとはっきりした時、それまでのやり方を改めるしかなくなってしまった。

 何十年も続けた態度を改めることは、抵抗があった。
 過去の否定から始めたら、もっと時間がかかったと思う。出口が見えないから、悪循環にはまってしまう可能性も高い。
 櫻井敦司の詩の世界を肯定することから始めたから、悪循環にもはまらず、当たり前にできることができない自分を受け入れられるようになった。もう見ていてイライラすることはない。子どものころ感じた楽しい気分に戻れた。

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 同じようにできるフリをしていたころは、他人がわたしに頼ってくることは考えなかった。「できないことを代わりにしたのだから、簡単なことぐらいやって当然」と要求されることを恐れて、人に頼むことを拒んできたわたしは、強者としての自分を意識することがなかった。
 でも、「自分でできる」と主張するために無理をしたことで、身についた何かがあるのかもしれない。

 強者としての自分を意識した時、初めて相手の反応で一喜一憂する訳が分かったような気がした。

 できることが多ければ、ヒーローになれる。でも、簡単にできてしまうから、なかなかできない相手と対等な関係を築きにくい。相手から甘えられない限り、無理に関わろうとすると正しいことを強制し、支配することになる。

 自分が弱かったからこそ、弱い立場にあっても、言いなりにはならないと痛感している。だから、相手を好きになれず、相手の事情に合わせることを負担に感じたなら、関わらないことを選ぶ。反対に、相手から強要された場合も、関わらないことを選ぶ。
 第三者から押し付けられた義務ではなく、自分の感覚を土台にした行動なので、受け入れることも、断ることも、苦痛ではなくなった。

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 たぶん、大阪の四天王寺にある御釈迦様が悟りを開く絵だったと思う。
 その絵を見て、「ここで女の手を取るのが、櫻井敦司の世界なんだろうな」と思った。老いてしまえば美しさは失われると退けることなく、一緒に年を取るのだろうなと思えた。そしたら、魔軍に責められることはない。
 仏になるという意味では、悟れないことは悪いことかもしれない。でも、人として間違っているとは思えない。

 その時感じたことが、準備中の話の元になっている。わたしの宗教観を表しているような気がする。
 インドのバクティヨーガや浄土宗が近いような気もするけど、書いてみないとどうなるか分からない。

 わたしがもっと強かったら、間違いなく世界一を目指して闘争を繰り返したと思う。弱かったから、戦い続ける運命に陥らなかった。そう思うと、強いのに打ち負かすことを求めなかった櫻井さんが、偉くみえる。
 昔は、いつか櫻井さんも敵を倒すことに夢中になるのではないかと疑う気持ちがあったけど、今はない。好きなものを守るために戦うことはあっても、嫌いなものをこの世から消し去るために戦うことはないと思う。

 嫌いなものを倒しても何も得るものがない。自分の力を誇示したいなら、戦う意味があるかもしれない。でも、戦いでは好意は得られない。虚しくなって続かない気がする。
 防御だけで攻撃しない態度は、弱気と非難されることも多い。でもわたしは、弱気なままでいてほしいと思う。社会の役に立たなくても、わたしは好きだからいいの。
 映画「ハウルの動く城」も、意味は同じだと思う。

 櫻井さんの方が年上なんだけど、「うちの子が、荒々しい兵士に変わるなんて嫌だわ」と思う。
 それでいて、わたし自身は、今でも世界一の剣士になりたかったりする。
 人の心は複雑で、矛盾したことを願う。

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